2023年9月8日(金)

2023年9月8日(金)


『堕落の後に』

創世記2章に編集的なコメントが入っていたことに、初めて気がついた。
神が、「人がそれを何と呼ぶかをご覧になるため」、アダムの前に多くの動物を行進させた場面に注目すべきだ。

全能者としては、なんと奇妙な新しい感覚だったろうか!
果てしなく広がる宇宙の創造主が傍観者役に徹し、アダムのすることを「静観」しておられる。

ブレーズ・パスカルによると、私たち人間には「因果関係の厳粛さ」が与えられてきた。
創世記の次の数章は、因果関係が厳粛なものでもあり重責でもあることを示している。

人間は家庭生活、農業、音楽、道具作りの基本をたちまち習得する。
だが、殺人、姦淫など、人間に特徴的な恐ろしい行動も習得してしまった。

やがて神は創造したご自身の決断を「後悔」される。
「主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた」。

旧約聖書を通して、神は傍観者になったり参与する者になったりしておられる。
地から血が泣き叫び、不正義が耐え難いほど大きくなり、悪があらゆる制約を蹴散らすときになると、神は行動される。

圧倒的なかたちで、そしてときには暴力的なかたちをとって。
山々は煙を吐き、地は大きく口を開き、人々はそこで命を絶たれる。

ところが、新約聖書が描いているのは、その「犠牲」となるために降りて来て、無私無欲に因果関係の厳粛さを分かち合う神だ。

神は世界を破壊する権利をもっているにもかかわらず———ノアの時代に一度、崩壊させるところだった———、いかなる犠牲を払ってでも、この世を愛するということを選ばれた。

ときどき不思議に思う。
歴史の中で何もしないことが神にとってどれほど困難であったことだろう、と。

創造物の栄光———熱帯雨林、鯨、象———が一つ一つ消えてゆくのを見たら、どんな気持ちになるだろうか。

ユダヤ人の全滅を見るのは、どんな気持ちだろうか。
「ひとり子」を失うことはどうだろうか。
神の自制はどんな犠牲を伴うのか。

私は常々、人間への影響という観点から堕落というものを考えてきた。
つまり、創世記3章に概括されている罰だ。

今回、堕落が神に与えた影響に目を向けさせられた。
聖書は最初の創造物の栄光に、たった二つの章しかあてていない。
その後に描いていることはすべて、再創造への痛々しい歩みだ。

God Bless You!!


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