2023年5月28日(日)
『ほかにない』
だれと関わりをもつ場合でも、その相手の存在を信じることが、まず必要だ。
私は、神の存在を信じる、それだけのために、信仰を働かせなければならない。
それなのに、信仰がどのように働くかを探究したいときは、いつも疑いという裏口から忍び込む。
自分には信仰が必要だと最も痛感するのは、信仰がないときであるからだ。
神が目に見えない存在であるということは、私が必然的に疑いを幾度となく経験することだ。
裏切りとも言えることに直面して、もう信じ続けることができないと思う人たちに、私は親近感を覚える。
私もときどき似たような経験をしてきたが、神が信仰という思いがけない贈り物を下さったことに驚いている。
自分自身が不信仰だった期間を調べてみると、ありとあらゆる不信仰のかたちがあったことに気づく。
証拠がないからと尻込みしたり、傷つくか失望してこっそり逃げたり、故意に従わずに脇へ逸れたりした。
しかし、いつも何かが私を神へと引き戻す。
それは何なのだろうか。
「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか」。
イエスの弟子たちのこの言葉を疑う人はみな繰り返す。
イエスの聴衆は、磁石のそばに置かれた羅針盤の針よろしく、引きつけられると同時に反発した。
イエスの言葉が理解されるにつれ、見物人や弟子の群れから一人、また一人と抜けていき、最後は十二弟子だけが残った。
「あなたがたも離れて行きたいのですか」。
イエスは悲しみとあきらめの入りまじった声で弟子たちにお尋ねになった。
いつものように、シモン・ペテロが口を開いた。
「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか」。
結局のところ、私が信仰に踏みとどまっている理由はそれなのだ。
恥ずかしい話だが、自分が囲いの中にい続けている最大の理由の一つは、いろいろなものを試してみても、ほかに良い選択肢がないことだ。
「主よ、私がだれのところに行けるでしょうか。」
目に見えない神と関わることよりも、そうした関係をもたないことのほうがはるかに難しいのだ。
God Bless You!!
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