2023年9月5日(火)

2023年9月5日(火)


『破壊活動』

アウシュヴィッツで日記を書き続けたユダヤ人の少女エティ・ヒレスムは、神との「邪魔されない対話」について書いている。

道徳的に不毛な場所にあっても、神がはっきりと彼女の前に姿を現された。
「ときどき、収容所のどこか片隅で足をあなたの大地の上におき、目をあなたの空へ上げて立っていると、涙が頬を流れます。
深い思いと感謝の涙が。」

彼女は恐怖を知った。
「『……それに、私は神を信じている。
みんなが〈身の毛もよだつ惨事〉と呼ぶもののただなかにいたいの。
それでも、人生は美しいって言うことができるわ』。

いま私は、ここの片隅に横たわっているが、目がくらくらして、からだは熱っぽく、何もできない。
ついさっき目がさめたとき、のどがからからだったので、水の入ったコップに手を伸ばし、その一口に感謝してこう思った」。

祈りは、信仰を絶えず疑う世界で行われる破壊活動だ。
ほかならぬ祈りという行為の中で疎外されている感じがしても、私は信仰によって祈り続け、神の臨在を示すしるしを探し続ける。

あらゆる創造物の分子以下のレベルに神がおられるのでなければ、世界は存在することを完全にやめるだろう。
神は美しかったり奇妙だったりする創造物の中におられるが、そのほとんどはどんな観察者にも感知されない。

神は御子イエスの中におられる。
イエスはこの星を訪れ、今やここに残された人々を擁護する者として仕えておられる。

イエスがマタイの福音書25章で主張されたように、神は飢えている人々、ホームレスの人々、病気の人々、投獄されている人々の中におられる。

そしてこの人たちに仕えるとき、私たちは神に仕えている。
神は、神の栄光のために建設された大聖堂や建物の中だけでなく、ラテンアメリカのベースコミュニティーや、中国の納屋にこっそり集まる家の教会におられる。

神は聖霊の中におられる。
聖霊は私たちのために言葉にならない声でうめき、ご自身に調和したあらゆる良心に優しい声で語りかける。

私は、祈りを神の臨在を確立する方法として見るのでなく、むしろ感知できてもできなくても、動かしがたい事実である神の臨在に応答する方法として考えるようになった。

テクニックにばかり執着したり、不適切な祈りをして罪意識に沈んだり、祈りが聞かれなくて失望落胆したりするたびに、祈りとは、すでにおられる神と親しくなることだ、と思い起こす。

God Bless You!!


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