2023年9月22日(金)
『道を突き進むこと』
イエスは言われた。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」。
真理といのちが、従っていこうとする動機になるかもしれないが、最終的には神との関係は、どんな関係もそうであるように、「道、やり方」、すなわち私の存在の細部に神を招き入れる日々のプロセスに帰着する。
セーレン・キエルケゴールはあるクリスチャンたちのことを、数学の問題の答えを本の最後を見て探したがる学童のようだと言った。
数学は一歩一歩、問題を解くことによってのみ学ぶことができる。
あるいはジャン・バニエのアナロジーを使うと、その道を追求することによってのみ、その喜び、苦労、遠回りに見える道を通ることによってのみ、巡礼者は目的地に着くことができる。
性衝動が減るか、取り去られるようにとまで真剣に祈っている未婚の友人がいる。
性衝動が絶えず誘惑を引き起こすのだと言う。
ポルノは気を散らし、失敗の螺旋へと放り投げ、デボーションの生活を駄目にするのだ、と。
私は努めて穏やかに、神は、男性ホルモンのレベルを調整し直すといった、君の望むようなかたちでは、祈りに応えてくださらないのではないかと言った。
皆と同じ方法で、訓練とコミュニティー、依存させてほしいという絶えざる願いに頼ることによって、忠誠を学ぶ可能性のほうが高い、と。
どんな理由か知らないが、神はこの壊れた世界を長い間堕落した状態のままにさせてこられた。
その壊れた世界に住む私たちは、神は私たちの快適さよりも品性に価値を置いておられるように思える。
しばしば、私たちを最も不快にする要素を用いて、その品性をつくられるのだ。
私自身は霊的生活において、新しい現実にオープンであり続けようとしている。
期待どおりに事が運ばなかったときに、神を非難するのでなく、失敗を通して私が新しくなり成長するよう神が導いてくださると信じる。
また、この世界がどう営まれているかに関して「パパは何でも知っている」と信じようと努めている。
旧約聖書の時代を振り返ると、神に行動してほしいと思うようなあからさまなやり方では、期待する結果が得られないことがわかる。
そして罪がなく、高圧的でなく、恵みと癒しに満ちたひとり子を神が送られたとき、私たちはそのひとり子を殺したのだ。
神ご自身が、より大きな目標を達成するために、ご自分の好まぬことを許しておられる。
God Bless You!!
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