2023年9月20日(水)

2023年9月20日(水)


『私の世界を脱創造すること』

詩篇第二篇は、反逆をもくろんでいる王や支配者を神が天で嘲笑しておられる様子を描いている。

南アフリカの囚人や、中国で苦難にあっている牧師、北朝鮮で迫害されている信仰者が崇高な信仰に達するには、そして神が本当に国々の間で崇められると信じるには、大きな飛躍が必要だ。

ピリピの牢獄で「歌を歌っていた」パウロや、「上から与えられていなければ、あなたにはわたしに対して何の権威もありません」という明白な真理でピラトを正されたイエスのことを思う。

そのような危機的状況にあっても、イエスは太陽系の誕生以前にさかのぼる長期的視点をもっておられた。

「静まって、わたしこそ神であることを知れ」。

ラテン語で「静まれ」の命令形は“vacate”だ。
サイモン・タグウェルによると、「神は私たちに、休み(vacation)を取るように、自分が神であることをしばらくやめて、神を神とするようにと招いておられる」。

私たちは祈りを、骨の折れる重大な仕事、他の約束事を後回しにしてでも計画に入れるべきもの、緊急の事柄があっても、その合間に押し込んでしまうべきもの、と考えることが多すぎる。

だが、それは要点をはずしているからだ、とタグウェルは言う。

「神は、休みを取りなさい、さぼりなさいと招いておられる。
私たちは、神として行わなければならないあらゆる重要な作業を中断し、神であることを神におゆだねすればよいのだ。」

私は祈ることによって、無限のあわれみをもち、人間の傷つきやすさに応えてくださる御方に対して、自らの失敗や弱さや限界を認めることができるのだ。

神を神とするというのは、当然、自分自身が支配する重役の椅子から降りることだ。
自分の目的を推し進め、自分の主張を通すために細心の注意を払って作ってきた世界を「神に明け渡す」ようにしなければならない。

依存症や自我と闘う人々は言うまでもなく、アダムとエバ、バベルの塔を建てた人々、ネブカドネツァル、南アフリカのあの看守たちは何が問題なのか十分理解している。

原罪が、神のようになろうとした二人の人間にさかのぼるなら、祈りの第一歩は神を認めること、神を「思い出すこと」だ———宇宙の真理を回復させるために。
ミルトンは言った。
「創造主はご自分だけの世界に住んでおられるのでないことを、人間に知らしめる」。

God Bless You!!


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