2023年9月17日(日)

2023年9月17日(日)


『神が物をお書きになったとき』

何を書いてよいのかわからなくて、頭を抱えていたある日、私のこの状況について、神は理解しておられるのだろうかと考えた。

神はもちろんお語りになった。
だけれども、何かをお書きになっただろうか。

そしてすぐ心に思い浮かんだのが十戒だった。

神は「さとしの板を二枚、すなわち神の指で書き記された石の板をモーセにお授けになった」。

しかしこのとき、モーセがシナイ山から下りて来る前に、イスラエルの民は十戒の最初の二つの戒めをすでに破っていた。

モーセはそれを知って怒り、その板を打ち砕いてしまった。
すると神はまずそれを書き直してくださった。

次に神が物をお書きになる場面は、バビロン(現代のイラク)での大宴会の場だった。
ベルシャツァル王がエルサレムの神殿から持ち出した金の器を冒潰すると、突然、手の指が現れて、塗り壁に四つの言葉を書いた。

その夜、権勢を誇ったバビロニア帝国は、ペルシア(現代のイラン)に屈する。

福音書は、イエスが物をお書きになった場面を一つだけ記録している。
宗教権威者たちが、姦淫の現場で女を捕らえた。
モーセの律法に従えば、女は死罪に値した。
ところがローマ人は、ユダヤ人が大罪の懲罰を下すことを禁じていた。

そのときイエスは何も言わず、身を屈めて地面に何か書いておられた。
そして口を開かれた。

「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」。

告発者たちのほうに、罠がはね返ってきたのだ。
恵みが支配し始めたのである。

後にパウロは、心に書かれた律法について語っている。
コリントの人々にこう言っている。

「あなたがたが……キリストの手紙であることは、明らかです。
それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです」。

以上のことをあわせて考えると、こうした場面は律法から恵みへと段階を踏んで進んでいることがわかった。
そして非常に重要なことに、その場面に三位一体のそれぞれの位格がおられたのだ。

媒体の三つ———石の板、塗り壁、神殿の庭の砂———は歴史上に起きた破壊行為によって姿を消してしまった。
けれども、神の文学作品は人々を変え、世代から世代へと受け継がれている。

「実に、私たちは神の作品であって」とパウロは書き、ギリシア語のポイエーマ(ポエム)という言葉をそこに使っている。

神が物をお書きになった場面を概観してからは、私はもはやあまり悩まなくなった。
紙の上に言葉を書くことと、気紛れな人間から神聖な芸術作品を創り出すこととは、はるかに規模の異なることだとわかったからだ。

God Bless You!!


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