2023年8月28日(月)
『三つの疑問』
「神は不公平なのか。」
「神は沈黙しておられるのか。」
「神は隠れておられるのか。」
出エジプト記と民数記は、これらの疑問に手っ取り早い解決が与えられても、神に対する失望の解決にはならないかもしれないことを教えてくれた。
イスラエル人は、遮られることのない神の臨在の光にさらされていたのに、どの民よりも気が変わりやすかった。
シナイの寂然とした道なき荒野をさまよっていたとき、十回も神に反逆した。
豊かな約束の地が目前に広がったときでさえ、奴隷だった「古き良き時代」を懐かしんでいた。
このような悲惨な結末が、なぜ神が今日もっと直接的に介入なさらないのかという問いの答えを見つける手がかりになるのかもしれない。
奇跡や、神の臨在を知らせる目を見張るほどのしるしに満ち満ちた世界に憧れるクリスチャンもいる。
二つに割れた紅海、エジプトでの十の災い、荒野で毎日与えられたマナに言及しながらの、もの欲しげな説教を聞くことがある。
まるで神に、今日でも同じようなことを起こしてほしいと願っているかのように。
だが、移動を繰り返したイスラエルの民の旅について、落ち着いて考えてみてほしい。
奇跡が炸裂すれば、信仰は育つのだろうか。
そんな信仰に神が興味を示されないことは明らかだ。
奇跡は私たちの心を神にではなく、そのしるしだけに向けがちなことを、イスラエルの民は数多くの証拠をもって教えてくれている。
イスラエル人は実に、奴隷から身を起こした、文化の未発達な粗野な人々だった。
けれども聖書を見ると、その姿は私たちの周囲で見覚えがあるものだ。
フレデリック・ビュークナーの言うように、イスラエル人は「他の人々と同じように、むしろ、はなはだ普通に」行動する傾向があったのだ。
彼らのことを研究しながら、神への失望の三大要因である不公平、沈黙、隠れておられるという問題が解決されても、人々の生き方に何の変化も見られないことに驚いた。
そして、神の地上での働きへの疑問が湧き起こってきて混乱した。
神は変わってしまわれたのか。
この地上から身を引かれたのだろうか。
God Bless You!!
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