2023年8月13日(日)

2023年8月13日(日)


『長く苦しむ愛』

長期間の苦しみと闘っている人々は、疲れが入り込んでくると言う。

どのような病であれ、最初、その人に多くの目が向けられる。
郵便受けはカードであふれ、カウンターには所狭しと花が置かれる。

だが、次第に関心は薄らいでゆく。
私たちは、消え去らない問題に当惑し、悩んでしまう。

ベッツィー・バーナムは、自らの実体験を綴った著書の中で、癌が再発を繰り返すたびに、見舞客が少なくなっていったと書いている。

病が長引くと、さらに傷つきやすくなり、恐怖と孤独感が増したという。
癒しを祈ったのに聞かれなかったことに憤慨し、彼女を責めている様子のクリスチャンもいた。

その人たちは信仰を失い、足が遠のき、残されたベッツィーは罪意識と自己嫌悪にさいなまれながら、癌の痛みとも付き合わなければならなかった。

遺伝子疾患をもつ子どもの親も、ベッツィーと同じ言葉を語る。
その子が生まれたときにはたくさんの同情が寄せられても、やがて連絡も少なくなってくる。

親に物心両面の必要が増していくにつれ、援助の提供は少なくなりがちだ。

パウロは御霊の実のリストの中に、古めかしく響く「寛容〔訳注=原語は longsuffering 長く苦しむこと、長く耐え忍ぶこと〕」を入れている。

文字どおり長い苦しみという問題に適用すれば、この言葉とその概念がよみがえってくる。

慎重に、しかしあえて言わせてもらおう。
キリストのからだにある私たちは、神が愛を現していないように見えるときに愛を現すよう求められている。
痛んでいる人々、とりわけ長期の痛みに苦しむ人々は、神に見放されたとしばしば感じるものだ。

妻の死を綴った心痛む日記の中でC・S・ルイスはこのことをだれよりもよく表現している。
自分が最も助けを必要としたとき、いつもそばにいるように思われていた神が、突然、遠くに行って、いなくなってしまったように思えたと記している。

まるで神がドアをバタンと閉めて、中から閂を二重にかけたかのようだった。

私たちには、苦しんでいる人が口に出せない祈りを、口にしなければならないときがある。
そして痛みや悲しみが極度に激しいとき、神の愛が感じられるのは、あなたや私のような、普通の人間の身体を通してだけであることが実に多い。

そのようにして、私たちはイエス・キリストのからだとして働くことができるのだ。

God Bless You!!


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