2023年7月6日(木)
『第三世界の目から見る福音』
イエスの話を読み、初代教会史を研究しながら、感動を受けつつ、困ったなとも思った。
今日の教会は社会的に尊敬される人々の集まりとなっていて、不届き者はもはや歓迎されていないと感じている。
イエスが明示した手本を考えると、これはどうしたことだろう。
私は現在コロラドに住んでいて、人種(白人)も社会階級(中流)もほぼ同じ人々が集う教会に通っている。
新約聖書を開き、初代教会がバラエティーに富んだ土壌に根を下ろしていたことを知ると驚かされる。
私たちに馴染み深い中産階級の教会は、福音書や使徒の働きに描かれている、社会から拒絶された人々が構成する多様なグループと、かけ離れている。
イエスの時代にいるつもりになって、その情景を思い描いてみる。
貧しい人々、病んでいる人々、取税人、罪人、娼婦たちがイエスを取り囲んでいる。
みなイエスの癒しや赦しのメッセージに感動している。
裕福で力をもつ者たちは傍観者として立ち、イエスを試し、こっそり見張り、罠に陥れようとしていた。
イエスの時代のこうした事実を知っていながら、米国のように富んだ国の中産階級が集う教会の中では、イエスのメッセージの革新的な核をあっけなく見失ってしまう。
自分の見方を正す一助として、第三世界のキリスト教を基盤とするコミュニティーで生まれた説教を読んだ。
第三世界の目を通して見た福音は、米国の多くの教会で説かれている福音とはずいぶん違って見える。
貧しい人々や無学な人々は、イエスが自らの使命について述べた箇所(「……貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。
捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ……」)が、イザヤ書からの引用であることを必ずしも知っているわけではないが、それが本当に良い知らせであると思って聞いている。
どんでん返しを抽象的概念としてではなく、神の約束した大胆な希望であり、弟子たちに対するイエスの挑戦として理解する。
世界からどのような扱われ方をしようと、貧しい人々や病んでいる人々は、イエスのゆえに、神にとって好ましくない存在ではないと確信している。
God Bless You!!
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