2023年7月28日(金)

2023年7月28日(金)


『率直な告白』

パウロのどの手紙にも、一つの問題が現れている。
律法に何の意味があるのかという問題だ。

パウロの手紙の読者の多くにとって、「律法」という言葉が表しているのは、旧約聖書の膨大なきまりや儀式を成文化したものだ。

パウロはそうしたきまりに通じている。
そして「新しい契約」や「キリストにある自由」について語り出すとき、ユダヤ人は常にその律法について、パウロがどう考えるかを知りたがっていた。

ローマ人への手紙の7章にはパウロの考えが正確に表されており、自身のことが記され、自伝的な章になっている。

パウロは律法を捨て去るようにとは勧めていない。
律法が基本的道徳律、神を喜ばせる理想的行為であることは明らかであるとしている。

律法の利点が一つある。
罪を暴露するのだ。

「律法によらなければ、私は罪を知ることはなかったでしょう」。
パウロにとって、十戒などの律法は役に立ち、正しく、良いものなのである。

律法にはしかし、一つ大きな問題がある。
人がいかに悪いかを証明するが、人を少しもより良い者にしないのだ。

当時の律法主義のイスラエル人として、パウロはすこぶる繊細な良心を育んだが、彼自身はっきりと述べているように、それは主として罪意識に閉じ込めるだけなのである。

パウロは告白している。
「私は本当にみじめな人間です!」。

律法は自らの弱さをあらわにするが、それを克服するための力を提供することはできない。
律法の———どんなきまりも———行き着く先は袋小路なのだ。

ローマ人への手紙7章には、不完全な人間が完全な神に献身するときに起こる戦いが鮮烈に描かれている。

「しつこいこの罪を、取り除くことなどできるだろうか」と思うクリスチャンならだれでも、パウロのこの率直な告白に慰めを見いだすのではないだろうか。

神の規準に向き合うと、すべての人が無力感に襲われるが、そのことこそパウロのポイントだ。
どんなきまりも、罪意識や失敗の恐ろしいサイクルを断ち切ることはできない。

私たちには、「古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕え」るために外部からの助け手が必要なのだ。
パウロはその助け手をローマ人への手紙8章でほめたたえている。

God Bless You!!


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