2023年7月24日(月)
『私が信じる理由』
懐疑主義に浸っていた時代、私は上から劇的なかたちで介入されるのを望んでいた。
何らかの方法で立証され得る、目に見えない現実的な証拠が欲しかった。
信仰をもつようになると、そうした超自然的な介入はそれほど重要でないように思える。
物質主義に基づいて人生を説明することでは、その現実を十分に説明できないと気づいたのが理由の一つだ。
私は、目に見える世界と目に見えない世界とのかすかな関連性に注意を向けるようになった。
恋愛を、単に生化学的誘因と説明したのでは不十分だと感じる。
美や自然には、天才的な創造主のしるしを感じ取る。
創造主への自然な反応は礼拝である。
ヤコブのように、私もときどき夢から目覚めて気づくのだ。
「まことに主はこの所におられる。
それなのに、私はそれを知らなかった」。
性欲も含めた欲望には、結びつきを求める神聖な希求のしるしがあると感じる。
また痛みや苦しみには、全能の愛が永遠にとどまることのできない恐ろしい分裂を感じ、あわれみ、寛大、正義、赦しには、もう一つの世界のことを語り伝える恵みの性質を感じる。
それらがないために傷ついた、ロシアのような場所を訪れると、特にそう思う。
イエスの中に、始終変わらずにそうした性質を保った人を感じる。
そのために世界はイエスに耐えられず、彼を黙らせ、亡き者にせざるをえなかった。
そのような人を感じる。
要するに、私は、目に見えない世界がこの世界に影響を与えているから信じるというよりも、目に見える世界が私の心を大きく感動させながらも、いまだ完成していると思えないゆえに、信じているのだ。
ある女性が自身の華々しい活躍を語った。
フェミニストの先駆者だった彼女は、男性に支配されていた内分泌学の分野で名声を得る。
ノーベル賞受賞者や世界の指導者たちと肩を並べ、だれよりも充実した豊かな人生を送った。
しかし彼女は話の最後に言いきったのだ。
「振り返ると、大事なのは、私が愛し、愛されてきたということ。
他のことはみなBGMにすぎない。」
愛もまた、私が信じる理由だ。
人生の最後に、これ以上大事なものがあるだろうか。
パウロは書いている。
「愛は決して絶えることがありません」。
「すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます」と。
彼は神の愛を描くことしかできなかった。
人間の愛は神の愛ほど完璧なレベルには到達しないからだ。
この世で味わっきた愛を通して私は確信している。
完全な愛は、この星の悲しい話に満足することがなく、悪が征服され、善が支配するまで休むことも、完全な愛の対象をなくすこともない、と。
完全な愛は、完全になるまで耐え忍ぶ。
God Bless You!!
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