2023年7月23日(日)

2023年7月23日(日)


『イエスご自身の身体』

神は、シナイの荒野を放浪するイスラエルの民に奇跡的は方法で食べ物を与え、彼らの靴がすり切れることはないという保証までなさった。

イエスも飢えた人々に食べ物を与え、人々の直接的な必要を満たされた。

こうしたわくわくするような話を読んだ多くのクリスチャンは、一種の郷愁と失望を感じながら過去を振り返る。

「神はなぜ今そうしてくださらないのか。」
「なぜ奇跡的は方法で私の必要も満たしてくださらないのか。」

ところが新約聖書の手紙は、別の方法を示しているように思える。
パウロは冷たい地下牢に閉じ込められたとき、長年の友人テモテに物質的な必要を満たしてくれるよう頼んでいる。

「外套を持って来てください。
また書物……を持って来てください」。

また、「マルコを伴って、一緒に来てください。
彼は私の務めのために役に立つからです」。

別の試練のとき、「神の慰め」をテトスの訪問というかたちで受けた。
そしてエルサレムの飢饉のときは、パウロ自身が先頭に立って、自らが設立したすべての教会間で基金調達を行った。

神は、かつてイスラエル人の必要を満たしたのと同様に、若い教会の必要をも満たされた。
けれどもそれは、ご自身のからだである教会を通して間接的に働かれたのだ。

パウロは、「教会はこれをし、神はそれをなさった」というような区別をつけない。
そうした区別は、パウロが常に主張した点を見落とすことになる。

教会はキリストのからだである。
だから、教会が何かをしたなら、それは神がなさったことなのだ。

パウロがこの真理を強調するのは、パウロ自身が劇的に神と出会ったことが関係しているからだろう。

当時パウロは、クリスチャン狩りで悪名高い賞金かせぎで、猛烈な迫害者だった。
ところが、ダマスコへ行く途中でまばゆい光を見、三日間目が見えなくなった。

そして、天から声を聞いたのである。
「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」。

あなたを迫害するですって?
だれを迫害するというのですか。
私はただ、あのクリスチャンという異教徒どもを追っているだけですよ。

「主よ、あなたはどなたですか」。
サウロは地に打ち倒されたまま、そう尋ねた。

「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と答えが返ってきた。

この一文は、聖霊によってもたらされた変化を見事に要約している。
イエスは、この出来事の何か月も前に処刑されていた。
サウロが追っていたのはあくまでもクリスチャンであって、イエスではない。

だがイエスはよみがえり、クリスチャンたちがイエスご自身のからだであることを告げた。
クリスチャンを傷つける者は、イエスを傷つけている。

パウロには決して忘れられない教えとなった。

God Bless You!!


a:6 t:1 y:0