2023年7月22日(土)
『鎖を断ち切る』
かつて共産主義者が支配した国でも、近年、赦しのドラマが目撃されている。
鉄のカーテンが上がる前の1983年、戒厳令下のポーランドを教皇ヨハネ・パウロ二世が訪れ、大規模な青空ミサを執り行った。
教区ごとにきれいにグループ分けされた群衆がポニアトースキー橋の上を行進し、スタジアムへと進んで行く。
橋のすぐ手前の道に、共産党中央委員会ビルがあった。
人々はビルを通り過ぎるとき、声を合わせて何時間も歌い続けた。
「あなたがたを赦します、あなたがたを赦します!」と。
誠心誠意、そのように歌った人もいたが、軽蔑の思いを込めて叫んでいるような人もいた。
「おまえたちなど目ではない。
われわれはおまえたちを憎んですらいない」とでも言うように。
その数年後、説教でポーランドを興奮させた35歳の司祭イェジ・ポピュウシュコが、目をくり抜かれ、指の爪をはがされて、ヴィスツラ川に遺体となって浮かんでいるのが発見された。
カトリックの信者たちは再び通りに繰り出し、「あなたがたを赦します、あなたがたを赦します」と書いた旗をかざして行進した。
「真理を守れ。善をもって悪を克服せよ。」
ポピェウシュコ神父はこれと同じメッセージを、毎日曜日に教会の広場を埋め尽くした群衆に説いていた。
人々は彼の死後も、なお彼に従った。
そしてついに、この広がりゆく恵みの精神がポーランドの体制を崩壊させた。
東ヨーロッパ中で赦しの戦いが今も行われている。
ロシアの牧師は、自分を投獄し、その教会を破壊したKGBのメンバーを赦すべきだろうか。
東ドイツ市民は、密告者たちを———神学校の教授や牧師、不実な伴侶も———赦すべきだろうか。
人権活動家ヴェラ・ウォレンバーガーは逮捕されて国外追放となったが、自分を裏切って秘密警察に密告したのが夫だとわかったとき、バスルームへ走って行って吐いた。
「私の通ってきた地獄は、だれにも経験してほしくありません」と彼女は言う。
パウル・ティリッヒはかつて、赦しとは過去を忘れるために過去を覚えることだ、と定義した。
これは個人同様、国家にも適用される原理である。
赦しは決してたやすいことではないし、何世代もかかるかもしれないが、人間を歴史的な過去の奴隷にする鎖を切断できるものが、ほかにあるだろうか。
God Bless You!!
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