2023年7月15日(土)
『当たりまえのことの習得』
神の臨在感が薄れるときや、人生が平凡であるがゆえに自分の対応の重要性を疑わしく思うときに、信仰は試みを受ける。
私たちは、「一人の人間に何ができるだろう。
私の小さな努力に、どんな意味があるというのか」と思う。
テレビで、第二次世界大戦の生存者へのインタビューをシリーズで放映していた。
兵士たちは、ある特別の日をどう過ごしたか思い起こしていた。
ある者は一日中、塹壕の中にこもり、一、二度、ドイツ軍の戦車が通りかかると、それを狙い撃ちした。
ある者はトランプをして時間をつぶしていた。
激しい銃撃戦に巻き込まれたのは数人だった。
歩兵にとっては、他の日とおおむね同じように過ぎていった。
しかし後日、自分たちが最大かつ決定的交戦に数えられるバルジの戦いに参加していたことを知る。
当時はだれ一人、その戦いを決定的なものであると思っていなかった。
別の場所で起きている大きな図式を知らなかったからだ。
普通の人々が自分に課された仕事をただ遂行していたときに大勝利が得られた。
忠実な人は、自分が軍曹の指令に従いたい気分かどうか、あるいは退屈な仕事で目立ちたい気分かどうか日々思案するなどといったことはしない。
私たちは目の前の仕事に応えて信仰を実践する。
コントロールできるのは、今この瞬間の自らの行動だけだからだ。
福音書の記者たちが公生涯に入る前のイエスの生活について詳しく書いていてくれたらと思うことがある。
成人してからのイエスは、生活の大半を村の大工として働いて過ごした。
イエスは繰り返しの多いその仕事に費やす時間の価値を問題視されたことはなかったのだろうか。
自分でも認めたくないほど、疑問はしばしば私を蝕む。
聖書にある明らかな争いを、苦しみと不正を、クリスチャン生活の理想と現実の大きなギャップを疑問に思う。
そういうときは足をひきずりながら歩く。
信仰の習慣に頼り、それが真実「であるかのように行動」し、確信が与えられるよう祈り求める。
最終的には与えられる確信、だが疑いが舞い戻るのを防いではくれない確信を。
God Bless You!!
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