2023年7月14日(金)
『なぜ耐え忍ぶのか』
ない。
他者との関係と、神との関係とには、そもそも違いがある。
食料品店で隣人にばったり出会う。
「ジュディが離婚したよ。」
そういえば最近、彼女から連絡をもらっていない。
ジュディに会って、何かしようと思い立つ。
生活状況を尋ね、子どもたちの様子を確かめ、教会に誘ってみるかもしれない。
「ぜひジュディや子どもたちと一緒に過ごそう。」
家に戻ってから食料品店での出会いを思い出し、妻に提案する。
ところが神との場合は順序が逆になる。
私は神を「見る」ことがない。
私が注意していなければ、神のことを思い出す視覚的な手がかりにばったり出会うなどということはまずない。
注意するという行為、追求自体が出会いを可能にするのだ。
キリスト教が、信頼と従順が最初に来て、知識は後からついて来ると常に主張してきたのは、そのためだ。
こうした違いがあるために、私はどんなふうに感じようとも、へこたれずに霊の訓練をし続ける。
私は神を知りたい。
そして神との関係を追求し続けるには、自分のやり方ではなく、神のやり方をしなければならない。
旧約聖書の預言者たちは、すこぶる率直に神を知るための条件を提示している。
ミカ書の次の聖句もそうだ。
「主はあなたに告げられた。
人よ、何が良いことなのか。
主があなたに何を求めておられるのかを。
それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか」。
同様に新約聖書の書簡は、神への愛とは、神に対して愛をもって行動することを意味し、それによって関係が育まれ、成長に導かれる、と繰り返し語っている。
神がわからないなら、神のみこころを行うのだ。
みこころを行うことによって神を知るようになる。
私は行動的な関係に入るが、それは、自発的にそうしたいと思うかどうかは別として、神と共に過ごすことであり、神が心にかけておられる人々のことを心にかけ、神の命令に従うことでもある。
トマス・マートンは問うた。
「『あなた』〔訳注=神〕のようになろうとしないで、どうやって『あなた』のことがわかるようになるでしょう。」
神は聖なる他者である。
私が共通の言語を使わずにハンガリー人を知ることができないように、共通の地盤に立たずに神を知ることはできない。
マートンは次のように付け加えている。
「謙虚な服従と愛によって、徹底的に自分を神に献げることによってのみ、私たちは啓蒙される。
まず見て、それから行動するのではない。
まず行動する。
すると見えてくる。
……だからこそ、はっきり見てから信じたいと望む人は、決して旅を始めることはない。」
God Bless You!!
a:9 t:1 y:0