2023年7月12日(水)
『イエスと痛み』
イエスは地上に来て、苦しみ、死んだ。
その事実があるからといって、私たちの人生から苦痛が取り除かれはしない。
しかしその事実が示すのは、神は何もしないで傍観し、私たちがひとり苦しむのを見ておられはしない、ということだ。
神は私たちの一人となった。
こうしてイエスにおいて、神は人間の苦しみに対するご自分の反応を、至近距離で直接見せてくださっている。
神と苦しみとに関するあらゆる疑問は、イエスに対する私たちの知識を通して出てきたもののはずだ。
地上に来た神は、苦痛にどう反応されたのか。
イエスは苦しむ人に出会ったとき、深くあわれみを覚えられた(あわれみ compassion は、ラテン語の patiとcumに由来する「共に苦しむ」という意味)。
「飢えに耐えよ!悲しみは呑み込め!」とは一度も言われなかった。
直接求められて、痛みをお癒しになることが何度もあった。
癒しを施すために、古い慣習を破られることもあった。
長血を患う女に触れたときや、「汚れている!」という叫び声を無視して、社会から捨てられた人々に触れた時がそれだ。
イエスの反応のパターンから、私たちの苦しみを楽しく見ている神でないことが確信できる。
イエスの弟子たちは、「神は心にかけてくださるのか」と問うて苦しむことはなかったのではなかろうか。
イエスの顔を見ているだけで、弟子たちには神が心にかけておられることがわかったのだ。
そしてイエス自身が苦しみに直面したとき、私たちのだれとも変わらないような反応を示された。
イエスは苦しみに後ずさりし、別の道はないかと三回尋ねられた。別の道はなく、イエスは初めて、最も人間的な意味で見捨てられた経験をされたのかもしれない。
イエスが地上で過ごした最後の夜を描いた福音書の記事に、恐れ、無力感、希望との激しい戦いが感じ取れる。
苦しむときに、だれもが対峙する領域だ。
地上で過ごしたイエスの生涯の記録は、「神は私たちの痛みをどう感じておられるのか」という問いに最終的な答えを与えた。
神は痛みの問題について、言葉や理論で答えてくださったのではなかった。
神はご自身を与えてくださったのだ。
哲学は難しい事柄を説明しても、それらを変える力をもたない。
イエスの生涯の物語である福音は、変化を約束している。
God Bless You!!
a:9 t:1 y:0