2023年6月6日(火)

2023年6月6日(火)


『悲しむ者』

『痛むとき、神はどこに』や『神に失望したとき』といったタイトルの本を書いたことで、嘆き悲しむ人々と関わってきた。

最初は彼らが怖かった。
彼らの尋ねる質問に答えをもっていなかったし、深い悲しみを目の当たりにすると、身の置きどころがない気持ちになった。

特に記憶に残っている年がある。
隣人の招待を受け、近くの病院で、ある治療グループに加わった。

「今日を実りあるものに」と呼ばれていたそのグループにいたのは、死期の近い人たちだった。
私は友人につき合って、その集まりに一年通った。

その集まりを「楽しんだ」とは言えない。
そんな言葉は不適当だ。
だが私にとって、この集まりは毎月の最も意義深い行事の一つとなった。

参加者が地位や権力をほのめかしながら、互いに印象づけ合おうとするパーティーとは対照的に、このグループではだれも自分を印象づけようとはしなかった。

服、流行、アパートの家具、仕事上の肩書き、新車———死期の迫っている人々にとって、そんなものに何の意味があるだろう。

それまでに会っただれよりも、「今日を実りあるものに」グループの人々は、究極的な問題に注意を集中させていた。
私はいつのまにか、浅薄で享楽的な友人たちにも、この集まりに出てほしいと思っていた。

その後、苦しみや悲しみの渦中にいる人々から学んだことについて、ものを書くようになると、面識のない人たちから便りが届くようになった。

私の持っている三つのファイルは、それぞれ数センチの厚さがあり、こうした人々からもらった手紙でいっぱいだ。
私にとって何より大切なものだ。

その中に、青い罫線の引かれた便箋にしたためられた26頁にも及ぶ手紙がある。
四歳の女の子が脳腫瘍の手術を受けているときに、母親が控室で書いたものだ。

また、四肢の麻痺した患者が息を管に送り込み、それをコンピューターが翻訳して手紙に印刷するという方法で「書いた」手紙もある。

手紙をくれた人々の話の結末は、楽しくないものが多い。
依然、神に見放されたと感じている人々もいる。

「なぜ?」という質問に、答えを見いだした人はほとんどいない。
しかしイエスは、悲しむ者は慰められると約束された。
私はその約束を信じる信仰を、いくつかの悲しみを通して獲得した。

God Bless You!!


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