2023年6月28日(水)
『芸術とプロパガンダ』
今日のクリスチャン作家は、反発し合う磁石のように、二つの力で引っ張られている気がする。
どんな「メッセージ」も遮ってしまう、自己表現、形式、構造に向かっていこうとする傾向と、これに対抗するように、人生に意味を与えるものを伝えようとする強い願望だ。
その結果、プロパガンダと芸術の両方に向かい、絶えず二つの分裂した力に引っ張られている。
プロパガンダは、目的のために不正に手段を操作したり歪曲させたりすることをほのめかす、最近は好まれない言葉だ。
私はこの言葉をもっと好ましい意味で用いている。
教皇ウルバヌス八世が作った、この言葉の本来の意味で使うのだ。
教皇はキリスト教信仰を広めるため、17世紀にプロパガンダを目的とする大学を創った。
私もクリスチャン作家として、この意味でプロパガンダに努めていることを一も二もなく認める。
拙著の多くは、私が真実だと思う観点を読者に考えてもらうのが狙いだ。
プロパガンダからかけ離れた文芸に引かれるのを埋め合わせるかのように、多くのクリスチャン作家が、芸術からかけ離れた狡猾なものに引きつけられている。
これは、ローマが燃えているときにバイオリンを弾くようなものではないだろうか。
福音派の立場に立つ人たちの書いた小説はとりわけプロパガンダの方向に向かい(聖書の物語をフィクションにし、再臨を予告するまでして)芸術からかけ離れた傾向にある。
この芸術とプロパガンダの磁場のどこかで、クリスチャン作家や画家や音楽家は仕事をしている。
一方の力は私たちをより低い芸術的次元に誘い、飾り気のないメッセージを説くよういざなう。
もう一つの力は、芸術的感性のゆえに、メッセージを覆い隠すか、変えてしまうようにといざなう。
こうした緊張のただ中で生きてきたので、私はそれを常に確認するという健全な緊張感を覚えるようになった。
成功はしばしば極端とともにある。
著者のプロパガンダの失敗が、キリスト教世界での成功になるかもしれない。
けれども、実にゆっくりとキリスト教世界と世俗世界との裂け目は広がってゆくだろう。
私たちがプロパガンダに傾き続けるなら、やがて自分たちばかりを対象としたものを書き、売ることになるだろう。
その一方で、クリスチャン作家は、もっと広い世界の文字どおりの基準を取り入れることができなくなる。
私たちの究極的なゴールは、自己表現ではなく、神を表現することなのだ。
God Bless You!!
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