2023年6月22日(木)
『神は副詞を愛される』
ピューリタンのことわざに、「神は副詞を愛される」というものがある。
それが暗示しているのは、神は具体的な結果より、私たちがどのような霊の状態にあるかに心をかけておられるということだ。
ピューリタンは人生のすべてを、その源である神と結びつけようとした。
聖と俗の二つに世界を分けるのでなく、統合しようとした。
神を喜ばせるとは、新しい「霊的」活動で忙しくするということではない。
ピューリタンが言ったように、家の掃除にせよ、説教することにせよ、馬に蹄鉄を打つことにせよ、ネイティブアメリカンのための聖書翻訳にせよ、人間の活動はどれも、神へのささげ物になる。
その精神で、トマス・マートンは晩年こう述べている。
「どんなことを言うかより、箒の使い方を見たほうが、その修道士のことがわかる。」
自然の中の神を「神聖視する」ことは比較的容易だ。
生活の中の普通の出来事を神聖視するほうがずっと難しい。
どうやったら、一日の決まりきった仕事が何らかの意味あるパターンをなすものと考えることができるだろうか。
どうやったら、一日の暮らしの中に神を読み取って、二つの世界を結びつけることができるだろうか。
マルティン・ルターはどんな仕事にも潜在的な召命を見ていた。
彼は言う。
「こやしをシャベルですくったりオムツを洗ったりするような、汚くて楽しくない仕事でも、きよらかな心でするなら、純粋で神聖な仕事である。」
ルターは、農夫、乳搾り、肉屋、靴職人といった一般の人々に、神ご自身がご覧になっていると思って仕事を果たすよう勧めた。
年老いた親の世話。
子どもが汚したものの後始末。
隣人とポーチに腰を下ろすこと。
顧客の苦情処理。
光ファイバーケーブルの据え付け。
ナースステーションで病歴を書き込むこと。
交通渋滞の中にいること。
木の伐採。
接客スタッフにチップを渡すこと。
食料品の買い出し。
私たちは、九割方というわけではないが、かなりの時間を日常的なことに費やす。
こうした事柄が重要であり、召命にもつながっていると信じるには、信仰が必要だ。
パウロは「私たちはキリストの心を持っています」と記しているが、全教会の中で、その証拠が最も見られないコリントの教会に向けてこれを書いている。
日常的なことのただ中で「キリストの心」を実践するとは、どういうことだろうか。
ベネディクト会の修道女ヨハンナ・チティスターは、霊性を「普通の生活を普通でないほど良く生きること。
……今いるところで、自分のありようが霊的でないなら、私たちは全く霊的でないのである」と要約している。
God Bless You!!
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