2023年6月16日(金)

2023年6月16日(金)


『キリスト教書籍の落とし穴』

昨今のキリスト教作家は神の創造物を避けてばかりいる。
創造物は単なる「物質」であり、超自然的な問題として目を向けるに値しないのだ。

ジャック・エリュールも、科学は目隠しをし、知的思考を厳しく制限して、超自然に関する問題を避けている、と言っている。

自然を避けることによって、人間は超自然という最も偉大なイメージから、また超自然を運んでいるものから離され、私たちの書くものは、創造物を模倣する力という最も大きな利点を失っている。

トルストイは春を描くとき、凍っているツンドラから小さな花々が芽吹く不思議を描き、そこにキリスト教への回心を描くときと同じあふれんばかりの喜びと重要性を込めている。

それもまた神の世界の表現だ。
その結果、どちらのくだりも繊細な読者の心に憧憬の感情を掻き立てる。

人々は自然界に生きている。
私たちはそれを確かに認め、超自然にそれらをもっていく前に、その意味を徹底的に調べなければならない。

超自然の伝達者としての自然を明らかにしようとする道を先導した優れた現代芸術家たちがいる。
アニー・ディラードの『ティンカー・クリークのほとりで』は、そのジャンルの金字塔だ。

ルイス・トーマスも同様の姿勢をとっているが、宗教的観点はそれほど明確でない。
これら二人の著者への反応は、この世界により全体論的アプローチを求める読者の渇きを証明している。

自然と超自然は、二つの別の世界ではなく、同じ現実の異なる表現であり、優れた著作物はその両方を扱ってしかるべきだ。

創造性とは、本質的にキリスト教の概念であり、ギリシア人にはなかった思想である。
ギリシア人が使ったのは、「テクノロジカル」の語源である「テクネ」という言葉だ。

ギリシアの偉大な詩人や劇作家たちは、作品をアレンジしたり作ったりするという観点から考えた。
無から創造する神という、模倣するモデルがなかったのだ。

創造されたその壮麗な世界を探検する機会を、クリスチャンがあまりにも無思慮に逃していることに私は衝撃を受けている。
私たちは周辺の読者からあまりにも隔たった超自然的世界に飛び、読者は跳ぶことができずにいる。

God Bless You!!


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