2023年6月14日(水)

2023年6月14日(水)


『なぜ純潔か』

性的誘惑と闘っていた人生のある時期、フランスのカトリック作家フランソワ・モーリヤックの『私は何を信じるか』という小編に関する記事を偶然見つけた。

老齢のモーリヤックが、かなりのページを割いて自身の欲望を論じていたのには驚いた。
モーリヤックは言った。

「老年は、何倍もの試練にさらされる時期にいる危険を冒している。
老人の想像力は、恐ろしい仕方で、自然に拒絶されたものの代用を務めているからだ。」

モーリヤックはカトリックの教えを受けて育ったにもかかわらず、性的な純潔を支持するカトリックの議論のほとんどをはねつけた。

「結婚は欲情を癒すものだ。」

多くの人々の場合と同様、モーリヤックにとってもそうではなかった。
欲情には未知の人物の魅力や冒険の味、偶然の出会いが含まれているからだ。

「欲情は自制することができる。」

だが、モーリヤックの性の欲望には、高波のように、どんなに良い心づもりをもさらっていってしまう力があった。

「真実の充足は一夫一婦婚の中にのみ見いだされる。」

これは正しいかもしれないが、一夫一婦婚においてさえも性的衝動が衰えないことを知る者には、とても正しいとは思えない。

このように、彼は伝統的な純潔の議論を慎重に考慮したうえで、それらの議論に欠陥があることを突きとめた。

モーリヤックは、最終的に、純潔でいる唯一の理由を見つけることができた。
それは、イエスが八つの幸いの中で提示したものだ。

「心のきよい者は幸いです。
その人たちは神を見るからです」。

モーリヤックは言う。
「不純は私たちを神から離れさせる。
霊的生活は、物質的世界の法則と同様、立証可能な法則に従っている……純潔は、より高次の愛へ至るための条件だ———あらゆる所有物にまさる所有物、すなわち神のものとなるための条件だ。
そう、危機に瀕しているものはこれにほかならない。」

フランソワ・モーリヤックの言葉を読んだからといって、私の欲情との闘いが終わったわけではなかった。
しかし彼の分析が真実であると知ったことは、明言しておかなければならない。

神が私たちに差し伸べてくださっている愛は、私たちがより高い愛、ほかの仕方では手に入れることのできない愛であり、それを受け取るためには、まず私たちの心身の機能がきよめられ、純化されることが求められている。

それが、純潔であろうとする動機である。
欲情を抱くことで、私は神との親密さに限度を設けてしまっている。

God Bless You!!


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