2023年6月12日(月)
『両手の信仰』
成熟した信仰には単純な信仰と忠誠の両方が含まれ、パラノイアと正反対に機能することを私は学んでいる。
成熟した信仰は、人生に起こるあらゆる出来事を、愛なる神への信頼を中心に組み立て直す。
良いことが起これば、私はそれを神からの贈り物として受け入れ、感謝に値するものと見る。
悪いことが起これば、それを必ずしも神から送られたものとは思わず———その反対の証拠を聖書に見ているのだ———そこに神と絶縁する理由を見いださない。
むしろ、神はそうした悪いことさえ、私の益となるように用いることがおできになる、と信頼する。
少なくとも、それが、私が懸命に目ざしているゴールである。
信仰深い人は、人生を恐れでなく、信頼という観点から見る。
信仰の基本は、たとえこの瞬間は混乱の中にあっても、神が支配しておられると信じることだ。
自分がどんなに価値のない人間に思えても、愛の神にとっては真に大切な存在であり、永遠に続く痛みはなく、悪が最後に勝利することもない、と。
信仰は、神のひとり子の死という歴史上最も暗い行為をも、最も輝かしい行為に必要な前奏曲と見る。
この世には、明らかに神の意思に反することが数多く起きている。
神が任命したスポークスマンである預言者たちの書を読むと、彼らは偶像崇拝、不正、暴力など、人間の罪と反逆のありさまを激しく非難している。
福音書の記事を読むと、イエスは、聖職者たちから「それがみこころだ」とみなされていた障がいのある人々を解放し、既成の宗教的権威を覆しておられる。
神の摂理は大いなる神秘かもしれないが、それでも私は、神がこれほど明らかに反対しておられることを神のせいにすることには首を傾けざるを得ない。
とはいっても、懐疑論者の疑問はなくならない。
どうすれば、悪いことについて神を責めず、人生の良いことについて神を称賛できるのか、という問いだ。
信頼の姿勢は、私が神との関係の中で学んだものに基づくものであり、逆のパラノイアだ。
神のやり方には戸惑うことが多い。
神はゆっくりとしたペースで動き、反抗者や放蕩者を好み、自らの力を抑え、ささやき声や沈黙の中で語られる。
しかし、これらの性質の中にさえ、私は、辛抱強さ、あわれみ、強制するよりも懇願したい気持ちのしるしを見る。
疑いの中にあるときは、イエスに気持ちを集中させる。
イエスには神ご自身の姿が最もよく現れている。
私は神を信頼するようになった。
そして、自分が知って愛するようになった神にそぐわない悲劇や悪が起きたときは、他の説明を求めている。
God Bless You!!
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