2023年6月1日(木)
『不愉快な数学』
弟子ペテロの几帳面な性格からして、恵みの数学的公式を追究するのは至極当然のことだった。
イエスにこう尋ねている。
「兄弟が私に対して罪を犯した場合、何回赦すべきでしょうか。
七回まででしょうか。」
当時のラビは、人は最大三回まで赦すことが望ましいと言っていたので、七回は寛大すぎるくらいだろう。
しかしイエスはすぐに、「わたしは七回までとは言いません。
77回までと言います」とお答えになる。
ペテロの質問をきっかけに、イエスはもう一つ辛辣な話をされた。
どういうわけか数億円の借金をつくってしまったしもべの話だ。
そこまで膨らんだ借金を抱えるしもべなど現実にはあり得ない。
そこにイエスの話の本質が凝縮されている。
たとえこの男の家族や子ども、財産の全部を差し押さえたとしても、借金の完済は望めない。
返済逃れは許されない行為であるにもかかわらず、この王は心からあわれみ、いきなり借金を帳消しにし、しもべを放免した。
イエスのたとえ話をよくよく考えるにつけ、ここでも「不愉快な」という言葉で福音の数学を描写したくなる。
イエスは、私たちを「目には目を、歯には歯を」という「恵みのない」世界から完全に抜け出させ、無限の恵みである神の国に招き入れようとして、このような恵みの話をされたと思われる。
ミロスラフ・ヴォルフは言う。
「恵みの分不相応な経済は、砂漠のようなモラルの経済にまさっている。」
私たちは就学前から、この「恵みのない」世界を渡る術を学び続ける。
早起きは三文の徳。
虎穴に入らずんば虎子を得ず。
ただほど高いものはない。
自分の権利を主張せよ。
支払っただけのものを得よ。
私がこうしたルールに詳しいのは、それによって生きているからだ。
私は働いただけのものを得るために働いている。
勝つことが好きだし、自分の権利を主張する。
人々には、その人にふさわしいもの———それ以上でもそれ以下でもないもの———を得てほしいと思っている。
しかし耳を澄ませると、おまえは受けて当然のものを受けなかったとどなる声が、福音から聞こえてくる。
罰を受けて当然だったのに、赦しを得た。
怒りを受けて当然だったのに、愛を得た。
借金を払えず牢に入るのがふさわしかったのに、傷のない信用歴を得た。
厳しい説教を聞かされ、ひざをついて悔い改めるのがふさわしかったのに、宴会———バベットの晩餐会———を開いてもらった。
God Bless You!!
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