2023年5月29日(月)

2023年5月29日(月)


『情熱のしるし』

では、どちらなのか。
満ち足りているのか無味乾燥なのか、光か暗闇か、勝利なのか失敗なのか。

答えを強要されたら、私は「両方だ」と言うだろう。

こうすれば祈りの人生に成功し、神の活き活きとした臨在を経験し、誘惑に常に勝利するといったコースを描いてみても、おそらく座礁することだろう。

目に見えない神との関係には、常に不確実性と可変性が含まれている。

しかし、私は先の質問は回避するほうが好きだ。
間違った質問だと思うからだ。

信仰の巨人たちを振り返ってみると、全員に共通しているものがあった。
それは勝利でも成功でもなく、情熱だ。

霊のテクニックを強調すると、神が何よりも大切にしておられる情熱的な関係から離れてしまう。
当然のことだ。

聖書は、教義学や神秘的経験よりも、人格をもった神との関係を強調している。
そして、人格的な関係は決して定常状態にはない。

神に愛された人たちは、同じような仕方で情熱をもって応えた。
モーセは神と激しく論じ、幾度も神を説得して気持ちを変えさせたほどだ。

ヤコブは一晩中戦い、神の祝福をつかもうとして策略を練った。
ヨブは皮肉のこもった怒りをもって、神を痛烈に非難した。

ダビデは少なくとも十戒の半分を破った。
しかし、彼らは決して神に見切りをつけることはなかったし、神も彼らを見切られなかった。

神は、怒りも非難も、意図的な不従順さえも対処することがおできになる。
けれども、関係を妨げるものがある。

無関心だ。

「彼らはわたしに背を向けて、顔を向けず」と、神はエレミヤに、イスラエルを痛烈に告発なさった。

聖書の霊の巨人たちから、目に見えない神と関わることについて、ある決定的な教訓を学んだ。
それは、何をしようと神を無視するな、ということだ。
神を人生のあらゆる局面に招き入れよ。

クリスチャンによっては、ヨブのような危機に見舞われたときが最も危険な状態となるだろう。
無関心で敵対してさえいるように思える神への信仰に、どうしてしがみつくことができるだろう。

私もその一人だが、もっと小さな危機に直面する人たちもいる。
調子の悪いコンピューター、請求書、迫ってきた旅行、友人の結婚式、人生によくある一般的な忙しさ等、 次から次へと気になる物事が重なり、徐々に神を人生の中心から押し出していく。

人と会ったり、食べたり働いたり、決断したりを、神を一顧だにせずやってしまうことがある。
そしてその溝は、ヨブが経験したものよりもはるかに深刻だ。

ヨブは神について考えることを、ただの一度もやめなかったからだ。

God Bless You!!


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