2023年5月25日(木)

2023年5月25日(木)


『密林の道』

本を書き始めるとき、私は鉈を振るって密林を切り開く。
それは他の人々に道を整えるためではなく、自分が通る道を見つけるためだ。

だれかあとについて来るだろうか。
自分は道に迷っただろうか。
そうした問いへの答えは、書いている間は決してわからない。
ひたすら鉈を振り回して進んで行くだけだ。

とはいえ、このイメージは完全に正しいというわけでもない。
道を切り開くとき、私は他の多くの人々、自分よりも先に行った「雲のような多くの証人」が描いた地図に従っているからだ。

自分の信仰との戦いには、少なくとも、誉れ高い長い行列に連なっているという強みがある。
似たような疑問や混乱を表現するものが、聖書の中に見られるのだ。

ジグムント・フロイトは、教会は教会自身に答えられる疑問だけを教えていると非難した。
そういう教会もあるだろうが、神は決してそんなことはなさらない。

ヨブ記、伝道者の書、ハバクク書等で、聖書は答えのない疑問を率直に投げかけている。

調べていくと、私が経験し、私に手紙をくれた人たちも語っている路上の障害物や遠回りや行き止まりの多くに、偉大な聖徒たちも出合っていたことがわかる。

現代の教会は霊的な成功の証しばかりを宣伝して、失敗の証しは伝えない傾向にあり、そのゆえに、教会の席で苦闘している人々をさらにつらい気持ちにさせている。

本やビデオも、やはり勝利にだけ焦点を当てている。

しかし教会史を少し調べれば、それとは違って、産卵する鮭のように上流に向かって懸命に泳ぐ人々の話を発見する。

そうした失敗に触れるのは、だれかの信仰を挫くためではなく、不可能なことまで約束する霊的プロパガンダに現実性を与えるためだ。

奇妙なことに、教会の失敗こそが教会が教える事柄の正しさを証明している。
神の恵みは水と同じく、低いところへと流れて行く。

教会にいる私たちが世界に提供できるのは謙遜と悔い改めであって、成功の公式ではない。
成功を指向するこの社会の中で、ほぼ私たちだけが、自分たちが失敗したこと、今も失敗していること、これからも常に失敗することを認めている。

だからこそ、私たちはこんなに神にすがるのだ。

God Bless You!!


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