2023年5月2日(火)

2023年5月2日(火)


『信仰を超えて』

知り合いに、潔癖症の人がいる。
四万平方メートルの森林に住んでいるのだが、敷地内の長く曲がりくねった道を車で通るたびに、あっちこっちに飛び出しているポンテローサの枯れ枝が気になって仕方がない。

剪定業者に電話をしてみると、懸念の木を全部刈り込むと五千ドルかかると言われた。
その金額に仰天したその人はチェーンソーを借りてきて、週末ごとに梯子に上った。
危ない思いもしたが、数週間で手に届くかぎりの枝を短く刈り込むことができた。

これだったら見積もりはいくらになるか問い合わせると、業者からがっかりするような答えが返ってきた。

「ロドリゲスさん、二倍の費用がかかると思いますよ。
われわれは下方の枝に足をかけ、その上の枝を伐るつもりでした。
下枝がないとトラックを搬入する必要があるので、その分、かなり費用が嵩みます。」

現代社会には、この話と共通するところがある。
私たちは西洋文明の土台であった下枝を伐り落としてしまった。
高いところにある枝は、すでに危険なほど遠くに見える。

アニー・ディラードは書いている。
「私たちは神聖な森の大枝から光を奪い、高い場所や聖なる小川の流れの土手にある、その光を消したのです。」

歴史を振り返ってみると、現代の西洋社会以前には、聖なるものを信じずに生きようとした社会はなかった。
そうした大転換が、いま気づき始めたばかりの結果をもたらしている。

私たちは今、人類を常にとらえてきた、意味、目的、道徳性という大きな問いについて混乱を招いている。
懐疑的な友人は、「イエスならどうするだろう」というスローガンを意図的に嘲笑し、「無神論者ならどうするだろう」と、よく問うていた。

そして、やがて問わなくなった。
確かな答えが見つからなかったからだ。

聖なるものを抹殺すると、人生の話が変わってしまう。
信仰心がもっと篤かった時代の人々は、慈愛に満ちた神が、自分たち一人ひとりを造られたのであり、たとえその瞬間はどのように見えても、神が究極的にこの世界を支配しておられ、世界は復活する運命にある、と思っていた。

しかし今、信仰をもたない人たちは、未来を約束し、現在に意味を授ける、すべてを包括する物語も、物語を超越したものもなく、迷子のひとりぼっちになっている。

God Bless You!!


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