2023年5月19日(金)

2023年5月19日(金)


『失った贈り物?』

シカゴで一文なしの人々のために働く友人から聞いた話だ。

「実に悲惨な状態の売春婦が私のところにやって来ました。
ホームレスで体の具合も悪く、二歳になる娘に食べ物を買うこともできずにいました。

彼女はすすり泣きながら、麻薬を買う金欲しさに、娘———まだ二歳ですよ!———を倒錯セックスの愛好家たちに提供してきたと言ったのです。

娘を一時間預ければ、自分が一晩で稼ぐよりも多くの金が手に入る。
麻薬を打ち続けるためにはそうするしかなかったと。

その話を聞くのは本当に耐えがたいものでした。
私には法的な責任がありました。
幼児虐待を報告する義務です。

でも、この人に何と言えばよいのでしょうか。

やっとの思いで、教会に助けを求めようと考えたことがあるか尋ねました。
彼女の顔をよぎった、あの驚きの表情を忘れることはないでしょう。

『教会ですって!」

彼女は叫びました。
「あんな所へなんか行くものですか。
自分の惨めさはもう十分に感じています。
教会なんかに行ったら、もっと惨めな気持ちにさせられるだけです。』」

友人の話を聞いて私の心に響いてきたのは、この売春婦によく似た女性たちが、イエスから離れるのではなく、この方に飛びついて行ったということだった。

自分に悪感情をもてばもつほど、女たちはイエスという御方を避難所と考えた。
教会はそのような賜物を失くしてしまったのだろうか。

貧しい人々は、地上におられたイエスのもとに集まって来たが、無一文の人たちは今、イエスの弟子たちに歓迎されていないと感じている。

これはいったいどうしたことだろう。

この問いについて考えれば考えるほど、私は鍵となる一つの言葉に引き寄せられる。
恵み(Grace)という言葉だ。

著述家スティーブン・ブラウンは、獣医なら犬を観ただけで、一度も会ったことのない飼い主のことが少なからずわかると述べている。

この世は、地上にいる私たち信者を見て、神の何を知るのだろうか。
「恵み」(ギリシア語ではカリス)の語根をたどってみると、「私は喜ぶ、私は嬉しい」を意味する動詞に行き着く。

私の経験では、喜ぶ、嬉しく思うというのは、人が教会を思ったときに、真っ先に心に浮かぶイメージではない。
教会といって人々が思い浮かべるのは、聖人ぶった人の姿なのだ。

教会とは、自分の行動をきよめる前に行くところではなく、すっかりきよめた後に訪れる場所と思われている。

恵みの場ではなく、道徳の場だと思われている。

God Bless You!!


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