2023年5月16日(火)
『神の声』
神のご計画を、一連の御声と考えてみよう。
雷のように轟いた第一声には、利点があった。
この声がシナイ山を震わせて発せられたり、炎がカルメル山の祭壇をなめ尽くしたりすると、だれも神を否定することができなかったからだ。
けれども驚くべきことに、その御声を聞いて恐れた人々、たとえばシナイやカルメルにいた民も、じきにそれを無視するようになった。
御声の大きさが邪魔になったのだ。
御声を求める者は本当にわずかだった。
御声が聞こえなくなっても、それをあきらめずに探し求めた者は、さらに少なかった。
やがてこの御声はイエスという形に変調した。
「みことば」は人となったのだ。
何十年かの間、神の声は、パレスチナの田舎に住むユダヤ人の音質と音量とアクセントを帯びていた。
語る声に権威があったが、それは普通の人間の声だった。
聞いた人が逃げることもなかった。
イエスの声はあくまでも穏やかで、反論することも、葬ることさえできた。
イエスが去った後、神の御声は新しい形をとった。
ペンテコステの日、炎のような舌−−−舌なのだが〔訳注=舌tongues には言語、言葉遣い等の意味もある〕−−−が忠実な人々の上に降り、神のからだである教会がこの地上でかたちをとり始めた。
この最後の声は空気のように身近なもので、ささやきのように静かである。
そして、何よりもか細く、簡単に無視できる声なのだ。
聖書は、この聖霊は「消される」ことも「悲しむ」こともあると述べている。
モーセの燃える柴やシナイの熱く溶けた岩を消すことができるだろうか!
けれども、御霊は今までの中で最も親密な声でもある。
私たちが弱くて、何を祈ったらよいかわからないとき、内住の御霊は言いようもない深いうめきによって、とりなしをしてくださる。
そのうめきは産みの苦しみの声であり、新しい創造への陣痛の痛みでもある。
御霊は、神に対する失望感をすべて取り除きはしない。
御霊に与えられた、とりなし手、助け主、カウンセラー、慰め主という称号がまさに、問題が消えないことを暗示している。
しかし、御霊は「来るべきことを保証する手付金」だと、パウロは金融業の言葉にたとえている。
聖霊は、そういう失望は一時的なものであり、神と共にある永遠のいのちへの前触れであることを思い出させ
てくださる。
God Bless You!!
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