2023年4月30日(日)

2023年4月30日(日)


『セーフティーネット』

私は長年、山上の説教をだれも真似することのできない人間の行動の青写真だと思っていた。

だがもう一度読んでみると、イエスは私たちを困らせるためではなく、「神」がどのようなお方であるかを伝えるために、あれらの言葉を語られたことに気がついた。

神のご性質が山上の説教の原譜なのだ。

なぜ敵を愛さなければならないのか。
それは、私たちのあわれみ深い父が、太陽を邪悪な者の上にも善良な者の上にも昇らせてくださるからだ。

なぜ完全でなければならないのか。
神が完全であられるからだ。

なぜ宝を天に積むのか。
父なる神がそこに住み、私たちに豊かに報いてくださるからだ。

なぜ恐れや思い煩いを抱かずに生きるのか。
野の百合や草を装わせる神が、私たちの面倒を見ると約束してくださったからだ。

なぜ祈るのか。
地上の父が子どもにパンや魚を与えるのなら、天の父はそれよりはるかに多く良い贈り物を、求める者に与えてくださるはずだからだ。

どうして私はこのことに気づかなかったのだろうか。
イエスは、私たちがトルストイのように眉根をよせて、完全になれない自分に絶望するために山上の説教を語られたのではない。

イエスは、それに向かって常に努力すべき神の理想を私たちに告げるため、しかしまた私たちのだれもその理想に到達することなど望めないことを示すためにも、山上の説教をお語りになったのだ。

山上の説教は神と私たちとの大きな隔たりを否応なく認識させるものであり、その説教の要求を弱めることでこの距離を縮めようとする試みは何であれ、全く的をはずしている。

最悪の悲劇は、山上の説教を別のかたちの律法主義に変えてしまうことだろう。
山上の説教は、あらゆる律法主義に終わりを告げさせるものだ。

パリサイ派のような律法主義はいつでも失敗するものだが、それは律法主義が厳しすぎるためではなく、厳しさが徹底していないためだ。

殺人者も癇癪もちも、姦淫を犯した者も好色漢も、盗人も貪欲な者も、私たちはみな、神の前には同等の場所に立っていることを、山上の説教は轟くように、また議論の余地もなく証明している。

私たちはみな絶望的であり、実際それが、神を知りたいと思う人間に唯一ふさわしい状態だ。
絶対的な理想からは落ちてしまっている私たちには、絶対的な恵みというセーフティーネット以外に着地すべき場所がないのである。

God Bless You!!


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