2023年3月17日(金)

2023年3月17日(金)


『武装解除する力』

教会が十字架の恥辱を甘受するには時間がかかった。
四世紀になって初めて、十字架は信仰の象徴になった。

キリストの磔刑が芸術の主題として多く用いられるようになったのは、本物の十字架刑を見た者がこの世にいなくなってからだ。

しかし今では、このシンボルは至るところにある。
芸術家は金を打ち伸ばしてローマの処刑道具の形を作り、野球選手はバットを振る前に十字を切る。
お菓子屋は受難週のクリスチャンに食べてもらえるようチョコレートの十字架まで作っている。

奇妙に思われるかもしれないが、キリスト教は十字架の宗教になった。
現代の言葉で言えば、絞首台、電気椅子、ガス室の宗教に。

通常、犯罪者として死んだ人は失敗者とみなされる。

使徒パウロは後にイエスについて深く思いを巡らせて言った。
「……様々な支配と権威の武装を解除し、それらをキリストの凱旋の行列に捕虜として加えて、さらしものにされました」。

パウロは何を言おうとしたのだろうか。

私は、権力の武装を解除した、現代の人々のことを考えることがある。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニアを刑務所の独房に閉じ込めた人種差別主義者の警官たち、ソルジェニーツィンを国外に追放したソ連政府、ヴァーツラフ・ハベルを投獄したチェコ政府、ベニグノ・アキノを殺害したフィリピン人、ネルソン・マンデラを投獄した南アフリカ共和国当局。

これらの人々はみな、問題を解決しているつもりでいたが、解決するどころか、自身の暴力と不正をあらわにする結末を迎えた。

道徳には、武装を解除させる力がある。

イエスが死んだとき、荒々しいローマ兵でさえ心を突き動かされて、こう叫んだ。
「この方は本当に神の子であった」。

このローマ兵は、残忍な同胞と、今際の際にあえぎながら彼らを赦した犠牲者との著しい違いを、あまりにも明瞭に見たのだ。

横木に釘ではりつけにされた青ざめた人物は、この世を支配する権力者たちがにせものの神々であることを明らかにしたのである。

権力者たちは、敬虔や正義という己の高尚な約束を破ったからだ。

無宗教ではなく、宗教がイエスを糾弾した。
無法ではなく、法がイエスを処刑した。
当時の政治、宗教の支配者たちは、裁判を不正に操作したりイエスに罰を下したり、また暴力で彼に対抗することによって現状を維持し、自分たちの権力だけを守ろうとする姿を暴露した。

イエスに対する一つ一つの暴行が、彼らの非合法性を明らかにした。

God Bless You!!


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