2023年2月7日(火)
『無理強いしない人』
ときどき考える。
マスメディアとハイテクを使って伝道するこの時代にイエスがいたら、どんな行動をとっておられただろうか、と。
大きな組織の運営にまつわるあれこれに頭を悩ませているイエスを想像することができない。
テレビ出演の前に、メイクアップ・アーティストの手で見栄えを整えてもらっているイエスも考えられない。
そしてイエスが資金集めの手紙を書いているところなど、全く想像しがたい。
テレビの事件記者たちは、これといった証拠もなく、超自然的な癒しの力をもっていると吹聴する伝道師の暴露記事を書きたがる。
イエスはそれとは対照的に、明らかに超自然的な力をもっておられたにもかかわらず、その力を軽視する傾向にあった。
マルコの福音書の中で、イエスは癒された人に「だれにも言ってはならない」と口止めされたことが七度もあった。
群衆が押し寄せて来ると、イエスは逃げ出してひとりになり、舟を漕いで湖を渡って行かれた。
他者の問題を解決しなければと思い込んでいる不健康な症状を、「メサイア(救い主)コンプレックス」という用語で表現することがある。
ところが真の救い主は、そのようなコンプレックスから明らかに自由であられたようだ。
生きているうちに全世界を回心させようとしたり、癒される準備が整っていない人々を治そうとしたりする抑えきれない衝動が、イエスにはなかった。
イエスがだれかの腕をねじ上げるとは思えない。
むしろ選択の行き着く結果を述べ、決断を相手に差し戻された。
たとえば裕福な男の疑問に、断固とした言葉で答え、男を去らせたことがあった。
マルコはイエスの助言を拒否したその男について、あえてこう付け加えている。
「イエスは彼を見つめ、いつくしんで……。」
要するに、イエスは人間の自由を、信じがたいほど尊重されたのだ。
伝道に携わる私たちに必要なのは、イエスの見せたような「メサイアコンプレックス」だ。
エルトン・トゥルーブラッドが言ったように、重荷というくびき、苦しみの杯、しもべであることを示す手ぬぐいというイエスの用いた招きのシンボルには、厳しく嫌悪感を催すような性質すらあった。
イエスは言われた。
「自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」。
これほどシンプルな招きがあるだろうか。
God Bless You!!
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