2023年2月21日(火)

2023年2月21日(火)


『罪意識に喝采する二つのこと』

「愛とは決して後悔しないこと。」
こう述べたのは、1970年代の感動的な恋愛映画である。

私はその逆を信じるようになった。
愛とは後悔することである、ということだ。

罪意識は良きものと思われていないが、私たちは罪意識に感謝すべきだ。
そのような強い力があって初めて人は後悔し、傷つけた人たちとの和解に踏み出すことができるからだ。

とはいえ、罪意識は危険でもある。
欠点に過剰な注意を向けて生きるクリスチャンがいるからだ。
彼らは神の律法のどれかを破っていないか、常にびくびくしている。

成熟したクリスチャンは、親や教会や社会から受け継いだ誤った罪意識と、聖書が明らかにしている神の律法を破ったときに抱く真の罪意識との違いを理解している。

後者の危険は、前者の危険に由来する。
肉体の痛みのように罪意識にも方向性があることを知らずに、罪意識の中をずぶずぶ歩いてしまう人たちがいる。

肉体が痛みという言葉で、怪我をしているところに注意を促すように、たましいは罪意識という言葉で、癒しに必要な処置を施すよう語りかけている。

どちらも目標は健康を取り戻すことだ。

エリ・ヴィーゼルは著書『現代の伝説』(Legends of Our Time)の中で、故郷ハンガリーの町シゲトゥーを訪れたときの話をしている。

二十年前、その町にいたヴィーゼルは、他のユダヤ人たちとともに強制収容所に送られた。
現在の町民たちがユダヤ人のことをすっかり忘れていることに驚き、落胆する。

ヴィーゼルは気づいた。
自分の罪を忘れることは、そもそも罪を犯すことと同じくらい大きな悪かもしれない、と。

霊の巨人たちの話を読みながら気づいたのは、私たちがいま聖人のようだと思っている人たちが、罪にだけ照準を合わせた感覚をもっているということだ。

神の理想を知ると、神聖さを熱望し、多くの人たちの目をくらませている虚栄心や防衛心から解き放たれ、自分も間違いを犯しかねない、と強く自覚するようになる。

真の聖人は自らの欠点に落胆しない。
この人たちは、罪意識を感じない人間は癒されないことを知っているからだ。

その一方で、罪意識の中を転げまわっている人も、癒されることがない。
罪意識は、赦しと回復を約束する神に向かって私たちを押し出すときにのみ、意図された目的に役立つものなのだ。

God Bless You!!


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