2023年2月20日(月)

2023年2月20日(月)


『鏡と硝子』

〔2月19日の続き〕
とはいえ、幸いにも、私はこの屈辱的な状態にとどまってはいない。

パスカルは言う。
「キリスト教は不思議だ。
自分が卑しく、忌まわしくすらあることを認めろと命じておきながら、神のようになりたいと思え、とも命じている。

そのような反対側の重りがなければ、この尊厳によってその人は恐ろしく空しくなるか、あるいはその屈辱によって恐ろしく卑しむべきものになることだろう。」

罪の増し加わったところ、恵みもより増し加わったのだ。

その防衛的なプライドを捨てて自己を失う謙遜な行為の後、突然、新しいアイデンティティーをもつ自分を発見する。
パウロが「キリストにあって」と描く、高められた状態だ。

もはや自分の考え、価値観、行為を擁護する必要はない。
私はそれらを、神の子として与えられたアイデンティティーと入れ換えた。

倫理の基準と世界観を決める責任がもう自分にはないのだ。

競争の感覚がたちまち色褪せる。
もはや人生を猛々しく生きる必要はない。
自分の存在証明をするために、点を稼ぐ必要はないのだ。

私の理想とする役割は、神を証明することになった。
それは、周囲の人たちがイエスとその愛を認めるような人生を生きることであり、私をこの世界から分け隔てる他の性質を認めさせることなどではない。

このプロセスは健全、かつ穏やかなものであり、全く望ましいものだ。
私たちの認識が不完全であっても、その認識が深まれば深まるほど、心は健康となっていくだろう。

私たちを見つめているキリストという一人のお方のために生きていることを忘れ去り、この競争社会にあって自己評価のための人生に堕するとき、私のうちに緊張と不安が燃え上がる。

以前の私は、深い洞察力を発揮して絵を描き、それに目を留めるすべての人を感動させることが生きがいとなっていた。
けれども今、自分の役割は鏡になること、自分を通して神のイメージを鮮明に反映することであると思っている。

ステンドグラスにたとえるほうが適切かもしれない。
私の人格と身体を通して神が輝くのだから。

God Bless You!!


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