2023年2月15日(水)

2023年2月15日(水)


『見合い結婚の精神』

〔2月14日の続き〕
一例を挙げると、現代の神学が苦しみの問題にこだわっていることを、私は常々奇妙に思ってきた。
この社会の人間は健康状態も格段に向上し、肉体のこうむる痛みもかつてなく軽減され、長生きもしている。

ところが、現代の芸術家、脚本家、哲学者、神学者たちは、ヨブの発した古い問いかけを今風に言い直そうと必死になっている。

なぜ神はこれほどの苦しみを許されるのか。
なぜ神は介入されないのか。

そうした絶叫が、神秘に満ちた第三世界から、あるいは過酷な苦しみに耐えたアレクサンドル・ソルジェニーツィンのような人々から出てこないという事実は、意義深い。

苦悶の叫びを発しているのは、主として快適に暮らし、強い自己愛をもつ、西側に住む私たちだ。

この奇妙な流れの中で考えながら、私は見合い結婚のたとえに戻る。
この見地に立って、神との関係に「見合い結婚の精神」が必要であるように思う。

神は今あるような私を造ってくださった。
特別の顔立ち、ハンデと制限、体型、精神力。

この性質やあの性質を不愉快に思って過ごし、私という「素材」を変えてほしいと神に求めながら人生を送ることができる。
あるいは、欠点その他をもつ自分を、神が用いることのできる素材として謙虚に受け入れることもできる。

それでも、満たされるべき要求のリストを手にしながら、誓うことはできない。
見合い結婚をする夫のように、先の展開がどうなるにせよ、まず神に忠誠を誓うのだ。

もちろんリスクが伴う。
未来がどうなるか、杳としてわからないのだ。

信仰とは、「良い時も悪い時も、病める時も健やかなる時も」、何があっても神を愛し、神から離れないと誓うことだ、という意見もあるだろう。

幸いなことに、「見合い結婚の精神」は双方に求められるものなのだ。
つまり、神も、前もって私に忠誠を誓っておられるということだ。

信仰とは、神も同じ誓いをされ、イエス・キリストがそのことを証明しておられる、と信じることだ。

神は私の業績を根拠に、条件付きで私を受け入れるのではない。
何があっても誓いを守られる。
そこに恵みがある。

God Bless You!!


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