2023年12月31日(日)

2023年12月31日(日)


『続行中の受肉』

宗教改革の200年以上前に、大御所の神学者トマス・アクィナスと、英国で頭角を現したばかりのヨハネス・ドゥンス・スコトゥスの間で神学論争が勃発した。

この論争は突きつめると、「人間が罪を犯していなかったら、クリスマスはあっただろうか」という問いを巡るものだった。

アクィナスにとっては、受肉は堕落した星を神が救済するためのものだが、彼と同時期の人たちはもっと多くのことがあると考えた。

ドゥンス・スコトゥスにとって、肉となった「ことば」は、創造主が永遠の昔から定めていたものであり、後から考え出されたものではなかった。

決してプランBではなかった。
アクィナスは十字架を、壊れた関係を贖う神の応答として強調した。

ドゥンス・スコトゥスはすべてのものの起源であり、すべてのものを結びつけ、すべてのものの成就に向かって進む、宇宙的なキリストについて、エペソ人への手紙やコロサイ人への手紙を引用した。

最終的に教会は、どちらのアプローチも聖書的に正しく、正統なものとして受け入れる、と結論した。

大半の神学者がアクィナスの考えを取る傾向にあったが、近年、カール・ラーナーのような卓越したカトリックの神学者たちがドゥンス・スコトゥスに注目している。

福音派の者たちもそうすべきなのかもしれない。

「キリストにある」というパウロの一句は、キリストのからだの比喩で鮮明にされたある現実をうかがわせる。
教会が時とともに、受肉を延長しているのだ。

オックスフォードでの素晴らしい説教で、オースティン・ファラーは、パウロの高尚な比喩を教会の悲しい実情に適用させる人だれもが抱く疑問について語った。

「このキリストのご性質と、私たちの実際のふるまいとの間にある大きな溝をどうすればよいのでしょう。
怠惰、自己中心、汚れ、軽率さ、痛ましいほど愚かな祈りというのが、私たちの実情です。
キリストが私たちになしてくださったことと、私たちが自分でなしたこととの間には大きな隔たりがあります。」

私たちはイエスの弟子たちがしたとまさに同じことをするべきだ、とファラーは言う。
週の最初の日に集まり、「もう一度復活を経験する」のである。

キリスト・イエスにある者は罪に定められないこと、私たちもキリスト・イエスにあって、罪に対して死に、神に対して生きていること、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものであり、古き世は過ぎ去って、すべてが新しくなったことを思い起こすのだ。

要するに、神は御子の贖いのレンズを通して私たちを見ておられるということである。
この驚くべき真理が、私たちの目の前にある。

God Bless You!!


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