2023年12月3日(日)
『最初の実存主義者』
〔12月2日の続き〕
現代の実存主義者は、伝道者の書1章9節から10節の小気味よい皮肉を評価するだろうか。
こう宣言されている。
「日の下には新しいものは一つもない。
『これを見よ。これは新しい』と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか前の時代にすでにあったものだ。」
1960年代に性急な因習打破と思われたものも、古代の伝道者のくたびれた預言を成就しただけのことだった。
その伝道者は3000年前に、人間の経験が及ぶ範囲をすべて予想し、驚くべきことに、自分の発見を聖書の中に入れたのである。
実際、伝道者の書はあらゆる時代に通じる書であり、私は、この先を見通した書物を理解しようと研究を始めた。
伝道者の書のメッセージには心底驚いたが、そこから立ち直ると、今度はある疑問につきまとわれるようになった。
旧約聖書を読み通した途端、伝道者の書がどうして箴言と共存できるのだろうと感じ、衝撃を受けたのだ。
これほど似たところのない書物があるだろうか。
二つの書を続けて読んだ人は、伝道者の書は、ある種の嘲笑的な反駁として書かれたのではないかと思うだろう。
箴言は人生を次のように理解している。
知恵を学び、思慮深さを使い、きまりに従え。
そうすれば長く繁栄した人生を送る、と。
ところが、伝道者の書では、自信に満ちた、こういうものだという口調———「私には人生がわかっているのだから、あなたはこの賢明な助言に従えばよいだけだ」———は消え失せ、あきらめと冷笑主義に置き換えられている。
繁栄した立派な人々も苦しみ、他の人間と何ら変わることなく死んでゆく。
邪悪な人々は繁栄し肥えてゆく。
箴言にはその反対のことが、きれいな形にまとめられているにもかかわらず。
「空しいことが地上で行われている。
悪しき者の行いに対する報いを受ける正しい人もいれば、正しい人の行いに対する報いを受ける悪しき者もいる。
私は言う。『これもまた空しい』と」。
旧約聖書の二つの書の違いに悩み、不満を覚えた。
聖書にはもっと一貫性が見られてよいのではないか。
しかし時が経つにつれ、この多様性を旧約聖書の主たる強みの一つとして評価するようになった。
長々しい交響曲のように、旧約聖書には喜ばしい気分から、憂いを帯びた気分まで、様々な気分が見られるが、その一つ一つが全体としてのインパクトを効果的に作り出している。
箴言の原理のままに動くこともあれば、伝道者の書が主張している耳障りな矛盾をもたらすこともある世界の中で、私たちはヨブ記のような試練を経験したり、詩篇23篇の穏やかさを経験したりしながら生きている。
God Bless You!!
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