2023年12月18日(月)

2023年12月18日(月)


『新しい近づき方』

式文ではない、個人的な祈りをする伝統の中で育った私たちは、人間の神への近づき方をイエスが変えた点を評価していないかもしれない。

普通の宗教的伝統では、神に近づくとき、まず恐れを感じるものだ。
ユダヤ人は、間違いなく恐れと崇拝を結びつけていた。

神と直接出会った「祝福された」人間は、身が焦げたり、光を放ったり、ヤコブのように足を引きずることになっても当然だった。

神にお会いする聖所を、壁で仕切って宮の中に設け、神の名を唱えたり文字で綴ったりすることを恐れていた。
そんな人々の中に、神は、飼葉桶に寝かされた赤ん坊という驚くべき姿で現れた。

イエスにおいて神は、恐れずに人間と関わる方法を見いだされたのだ。

実際、恐怖が功を奏したためしはなかった。
旧約聖書は恐怖のもつ利点より、欠点のほうをはるかに多く記している。

神と人間の間にある広大な溝を強調するのでなく、むしろその溝を覆う新たな接近方法、聖書の言葉を使えば新しい契約が必要とされていた。

塩水を入れた水槽を管理しながら、受肉について学んだことがあった。

水槽の管理は楽ではない。
費やした労力を考えると、魚たちは感謝ぐらいしてくれたと読者諸氏は思われるだろう。

だが、そんなことはなかった。
水槽に私の影がかかるたびに、魚たちはいちばん近くの貝殻の中に身を潜めた。

魚にとって私は神だった。
存在が大きすぎるため、私の行動はあまりにも理解しづらかった。

魚たちをいつくしむ私の行為を、彼らは残酷なものと見た。
魚の病を癒そうとする試みも破壊的なものとみなされた。

彼らの認識を変えるには、受肉という形態をとるしかない。
自分も魚になり、魚にわかる言葉で「話しかける」しかないだろう。

人間が魚になることなど、神が赤ん坊になることと比べれば何でもない。
だが、福音書によると、これこそがベツレヘムで起きたことだったのだ。

物質を造られた神が物質の中にかたちをなした。
芸術家が作品の一部になったり、脚本家が自分の書いた劇の登場人物になったりするようなものだ。

神は現実の人物だけを用いて、現実の歴史のページに話を書かれた。
「ことば」が肉となったのだ。

God Bless You!!


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