2023年12月11日(月)

2023年12月11日(月)


『神の求めるもの』

ある冬、コロラドの山小屋に二週間こもった。
本と覚書をいっぱいに詰めたスーツケースを持ち込んだが、開いたのは一冊の書物、聖書だけだった。

創世記から始めて、最後のヨハネの黙示録まで読み終えたときには、車寄せの雪をかき出すためにトラックを呼ばなければならなかった。

雪に覆われた静けさと、人里離れた孤独、そして集中力が、私の聖書の読み方をすっかり変えてしまった。

毎日聖書を読みながら、何よりこんなことを思った。

神学書に書かれている神は、全知全能で痛みを感じない。
そのような概念を確かに聖書の中に見いだすことができるが、深く隠されているため、掘り起こしていかなければわからない。

単純に聖書を読んで出会うのは、ぼんやりした靄ではなく、実在する人格だ。
神は喜びや怒り、やるせない憤りを覚えている。

人間の行為に幾度も衝撃を受けている。
人々の行動への報いを決めた後になって、「思い直された」こともある。

私のように聖書をそのまま読み通すと、宇宙の主なる神の喜びと苦しみの大きさ、熱い思いに心を打たれるのではないか。

神が私たちにも伝わるように、人間の経験からのイメージを「借用している」ことは間違いないが、そうしたイメージがその背後のさらに強い現実性を指し示していることも確かだ。

私はエレミヤ書に最も強い影響を受けた。
エレミヤ書に記されている、傷ついた恋人のイメージは、私にはなかなか理解できないすごいものだ。

存在するすべてのものを創造された神が、なぜ創造物からのそのような屈辱を甘んじて受けるのだろうか。
私たちの応答をそれほど重要なものとする神の現実性に、私は頭を抱えてしまった。

アルファベット順に神を言葉や概念に置き換え、整理してしまえば、神が何にもまして求めておられる情熱的な関係の力を容易に失ってしまう。

ものを書き、話し、神について考えることまでする私たちに、これほど大きな危険はないのかもしれない。
単なる抽象化は神にとって、最も残酷な侮辱なのかもしれない。

聖書全巻を二週間で読破した後、私は神を分析することにあまり興味をもたなくなった。
どんな親、どんな恋人もそうであるように、神は何よりも愛されることを願っておられるのだ。

God Bless You!!


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