2023年11月8日(水)

2023年11月8日(水)


『教会の偽善』

信仰深いクリスチャンにとって、教会は本当に必要なのだろうか。

ウィンストン・チャーチルはかつて、自分は教会と「飛び控え壁」のように関わっていると言った。
すなわち、教会を外側から支えているというのである。

教理を誠実に信じ、自らを神に明け渡してからも、しばらくの間この戦略をとってみた。
それは私ひとりだけではない。
日曜日に教会に通う人々は、キリストに従っていると主張する人々よりも、はるかに少ない。

私と同じような経験をしてきた人たちもいる。
つまり、以前通っていた教会で、怒りを覚えたり、裏切られたと思ったりしているのである。

「教会から得るものは何もない」と言う人たちもいる。

イエスに従うことと、日曜日に礼拝堂へ他のクリスチャンの後にくっついて行くこととは、全く違う話である。
それなのに、なぜそれほど教会にこだわるのか。

詩人のアン・セクストンはこう述べている。
「彼らはイエスの両手に釘を打ち込んだ。
それから、そう、それから、皆がイースター用の美しい帽子をかぶるのだった……。」

自分の人生の旅路を回想すると、いくつかの障害が私を教会から遠ざけていたことがわかる。
まず、偽善だ。
無神論者の哲学者フリードリッヒ・ニーチェは、クリスチャンに対してどうしてそんなに否定的な態度をとるのかと尋ねられ、こう答えた。

「もし彼らがもう少しでも救われた人のような表情をしていたなら、私も彼らの言う救いを信じることでしょう。」

子どものころの絶対主義的なファンダメンタリズムに傷つけられて、私の足も教会に喜んで向かうことはなかった。
日曜日の朝、クリスチャンはめかしこんで微笑を交わすが、私は経験上、そのようなうわべの表情の裏に意地悪な精神があることを知っていた。

偽善の臭いがするものがあれば、即座に抵抗を示していたが、ある日、こんな問いが心に浮かんだ。
「私のような人間ばかり集まっている教会は、どのように見えるだろうか。」

謙虚な思いになり、他のだれかではなく、自分自身の霊性に注意を集中させるようになったのは妥当なことだった。

教会の偽善を最終的にさばくのは神である、と結論した。
教会のさばきは神の大能の御手にゆだねよう、と。

私は肩の力が抜け、柔和になり、以前より他の人を赦せるようになった。
そもそも、完璧な配偶者や完全な親、非の打ちどころのない子どもなどいるのだろうか。

完璧でないからといって、家族を見捨てたりはしない。
教会についても同様なのだ。

God Bless You!!


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