2023年11月7日(火)

2023年11月7日(火)


『究極の抗議』

聖書は金銭について、特定のガイドラインより、大まかな原理に言及するが、私たちすべてに開かれたある活動を提案している。

私たちは、金銭のもつ力から解放され得るし、金銭を与えることによって、そうなるのである。

エルサレムの腐敗し、崩れかかった制度は、未亡人がなけなしの小銭を献金したところでどうにもならなかった。
しかし、イエスはその女の行為の中に、金銭に対する正しい精神が現れているのをご覧になった。

ワシントンDCの「救い主の教会」のゴードン・コスビーが、六人の子どもと食うや食わずの生活をしている未亡人の話をしている。

彼女は毎週忠実に、献金皿に四ドルを献げていた。
執事がコスビーに、「献金する分をご家族のために使っていいんですよ」と未亡人に助言してはどうかと言った。

執事の助言をそのまま伝えたコスビーは、その後ずっと後悔することになる。
未亡人は深く悲しみ、こう答えたのだ。

「先生は、私の尊厳と目的の最後の拠りどころを奪おうとしておられます。」
彼女は、与えるという行為の本質を知っていて、必死にそれにしがみついていたのだ。

その本質とは何か。
与えるという行為は、与える側に大きな益をもたらすということである。

今日、アフリカやインドの人々に財政的支援が必要であることを慈善団体が呼びかけ、寄付を募っている。
けれども、支援を受ける人たちが受け取る財的必要と寸分たがわず、支援する側に必要な行為であるというのが真実なのだ。

与えるという行為ほど、この世における私の場を思い起こさせてくれるものはない。
空の鳥や野の花と同じように、私たちはみな、神の善良さと恵みによってここに生きている、とイエスは言われた。

空の鳥や野の花は、将来の安心安全について悩んだりはしない。
私たちも悩まなくてよいのだ。
神は雀や百合を養っておられる。

与えるという行為は、私のこともそのように養ってくださるとの信仰と確信を表すものなのだ。

God Bless You!!


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