2023年11月6日(月)

2023年11月6日(月)


『鏡か窓か』

スターリンは早くから、ポーランドに「新しい町」を意味する村ノワフータをつくり、共産主義の明るい未来を実行しようとした。

そして国全体をいきなり変えることはできなくても、光り輝く鉄鋼工場、ゆったりとした住宅、たくさんの公園、広い道路などを備えた新しい町を、後に続く都市のモデルとして建設することができた、と述べた。

ところが、ノワフータは後に「連帯」の基地の一つとなり、共産主義が町一つをも治められなかったことを証明した。

クリスチャンがこの世界でこれと同じ手法を用いて成功したら、どうだろうか。
ボンヘッファーによると、「クリスチャンは、この世ではまことの故郷の植民地である」。

クリスチャンは、私たちのまことの故郷を指し示す植民地の建設を目ざして、もっと努力すべきなのだろう。
残念ながら教会は、別の社会を示す窓でなく、教会を取り巻く社会をそのまま映し出す鏡をかざしてばかりいる。

この世が悪名高い罪人を蔑むなら、教会はその人を愛そう。
この世が貧しい人や苦しんでいる人への援助を打ち切るなら、教会は食物と癒しを提供しよう。

この世が人々を虐げるなら、教会はその人たちを助け起こそう。
この世が、社会から除け者にされた人たちを辱めるなら、教会は神の和解と愛を宣言しよう。

この世が利潤と自己充足を追い求めるなら、教会は犠牲と奉仕を追い求めよう。
この世が天罰を要求するなら、教会は恵みを分かち合おう。

この世が分裂するなら、教会は一つになろう。
この世が敵を滅ぼすなら、教会は敵を愛そう。

少なくとも、これが新約聖書に描かれた教会の姿だ。
教会とは、敵対的なこの世界の中の、天国の植民地なのだ。

共産主義国内の反体制派の人たちのように、クリスチャンは異なるルールで生きている。
ボンヘッファーは、私たちは「変わった」人間だ、と書いたが、彼はそれを、異常であること、普通でないことと定義している。

つまり、当たり前でないことなのだ。

イエスが十字架にかけられたのは、彼が良き市民であったからでも、他の人よりも少しだけ善人だったからでもない。

当時の権力者たちは、イエスとその弟子たちが不穏分子であることを鋭く見抜いていた。
イエスや弟子たちが、ローマやエルサレムよりも上にあるところから命令を受けていたからだ。

不穏分子である教会は、現代の米国でどのように見えているのだろうか。

God Bless You!!


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