2023年11月5日(日)
『水で薄める』
G・K・チェスタトンの警句を心に刻むべきだろう。
教会と国家との結託は、国家には好都合かもしれないが、教会にとってはよろしくない、という警句だ。
そこには恵みにとって最大の危険が存在する。
国家は、恵みを欠いたルールで営まれるものであり、教会のもつ恵みの崇高なメッセージを徐々に消していく危険性がある。
権力を貪欲に追求する国家が、教会をコントロールすれば、より使い勝手がよいものになると考えるだろう。
それが最も劇的に現れたのが、ナチス・ドイツだった。
福音派のクリスチャンは、道徳性を再建するというヒトラーの約束に魅了された。
教会は、国家の強権を相殺する抵抗勢力として、その本領を発揮する。
政府とねんごろになればなるほど、そのメッセージは薄められる。
福音そのものが、市民宗教に委ねられるときに変質してしまう。
アラスデア・マッキンタイアが指摘するように、アリストテレスの高尚な倫理学に、悪い人間に愛を示す善良な人間は入っていない。
恵みの福音の入る余地はなかったのだ。
要するに、国家とは常にイエスの命令の絶対的な特質を骨抜きにし、外的な道徳というかたちに変えてしまうものなのだ。
まさしく恵みの福音の正反対のものだ。
ジャック・エリュールは、新約聖書は「ユダヤ———キリスト教倫理」など教えていない、とまで言っている。
聖書は回心を命じ、「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」と言う。
山上の説教を読んで、そのとおりの法律を制定している政府があるか、想像してみるとよい。
州政府は日曜日に店や劇場を閉めさせることはできても、礼拝を強制することはできない。
KKK〔訳注=クー・クラックス・クラン。米国の秘密結社、白人至上主義団体〕の殺人者を逮捕し罰することはできても、彼らの憎しみをなくすこと、ましてや愛を教えることはできない。
離婚を困難にする法律を通過させることはできても、夫が妻を愛し、妻が夫を愛するよう強制することはできない。
貧しい人に援助金を与えることはできても、金持ちに貧しい人へのあわれみと正義を示すよう強制することはできない。
姦淫を禁じることはできても、情欲を禁じることはできない。
窃盗を禁じることはできても、貪る思いを禁じることはできない。
嘘やごまかしを禁じることはできても、高慢を禁じることはできない。
美徳を奨励することはできても、きよさを奨励することはできない。
God Bless You!!
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