2023年11月30日(木)
『上級課程』
生活のあらゆる細部に「神を入らせる」そのプロセスこそ、私は学ぶ必要がある。
工業化された忙しい現代世界では、生活を分ける傾向がある。
車を修理に出したり、休暇をとったり、仕事に出かけたり、芝を刈ったり、子どもの送迎をしたりと、毎日盛りだくさんの活動をしてから、教会や小グループ、個人のデボーション等「霊的な」活動をする時間を作り出そうとする。
そうした分離が詩篇には全く見られない。
どのようにしてか、ダビデや他の詩人たちは、すべてが神と関わるよう、神を生活の重点としていた。
彼らにとって礼拝は人生の中心的活動であり、他の活動を再び始めるために乗り越えるべきものではなかった。
私はこの新たな方向づけという日々のプロセスを学んでいる。
そして詩篇は私にとって、神が真におられる場所をすべての中心と認識するプロセスでの一歩となった。
ヘブル詩人が最初に祈った祈りを、しかと自分の祈りにしようとしている。
新約聖書の記者たちは、詩篇を最も頻繁に引用して、それを行った。
同様に、地上における神の御子も、人間と神との関係を表す言語として詩篇に頼られた。
詩篇を自分の祈りとするには、間違いなく一生涯をかけた関わりが求められる。
詩篇の中には緊急性や神への願いと渇きを感じるが、私自身はそれとは対照的に、貧血症気味だ。
詩篇の記者たちは、疲れ切った鹿が水をあえぎ求めるように、舌を突き出して神をあえぎ求めた。
夜、「主の麗しさ」を夢見ながら、目を覚まして横になっていた。
他の場所で一千年過ごすよりも、神のおられるところで一日過ごすほうが良かった。
この詩人たちは信仰の上級課程にいたが、私自身は幼稚園生に近いと感じることが多い。
けれども詩篇を再び読むようになった今、良い影響を受けて変わっていけるのではないかと思っている。
God Bless You!!
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