2023年11月24日(金)
『御利益信仰』
宣教に携わる人々はほかのだれよりも、知らず知らずのうちに「御利益信仰」をもって生きているのではないだろうか。
たしかに彼らは神に仕えるために時間とエネルギーを使っている。
そのお返しに特別扱いを受けても当然ではないだろうか、と。
妻は、炊き出し用の肉を調達する間に、また病院で寝たきりになっている人を訪問している間に、駐車違反の切符を切られて、腹を立てていたものだった。
駐車メーターがオーバーしたのは、神の働きをするためにもっと多くの時間をあてる必要があったからだ。
それなのに受けた報いといえば、罰金と市裁判所への半日の旅ときたのだ!
シカゴで都会伝道をしている真の「聖徒」バドは、ホームレスの人々のためにどうやって家を建てるかをボランティアたちに教えていたとき、危うく電動のこぎりで手を切断するところだった。
友人のダグラスはいろいろな意味でヨブのような人生を送ってきた人だった。
伝道に失敗し、妻を癌で喪い、飲酒運転の車のせいで自身も子どもも大怪我を負った。
それでもダグラスはこう話してくれた。
「神と人生を混同してはならない。」
疑いが湧き起こるとき、私はよくパウロの書いたあの偉大な章、ローマ人への手紙8章を開く。
そこでパウロは問う。
「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。
苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか」と。
この一文に、使徒パウロの宣教の歩みが要約されている。
彼は福音のために、こうしたあらゆる試練に耐えた。
それでもどういうわけか、これらの「こと」———それ自体が善でないのは確かだ———があっても、神は善を成し遂げるためにそれらのことを用いることがおできになる、と信じていた。
使徒パウロは、人生の苦難以上に、かの日に勝利される、いつくしみ深い神に目を注ぐようになった。
「私はこう確信しています。
死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」。
ローマ人への手紙8章は、勝利のうちに締めくくられる。
こうした確信があれば、宣教の働きが思うに任せず落胆したときでも、大いに助けとなるだろう。
God Bless You!!
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