2023年11月23日(木)
『依存の宣言』
ノルウェーの神学者オー・ハレスビーは、無力という一語に、神が祈りとしてお認めになる心のあり方がいちばんよく要約されていると言う。
「ことばに出すかどうかは神にとって問題ではありません。
それは私たちだけの問題なのです。」
そして、こう付け加えている。
「無力な人だけが本当に祈ることができるのです」。
なんというつまずきの石だろう!
私たちは生まれ落ちると、それほど時間を置かず一生懸命自立しようとする。
トイレに行く、服を着る、歯を磨く、靴ひもを結ぶ、自転車に乗る、歩いて学校に行くなど、子どもが何かをひとりでできるようになると、大人はそれをたたえる。
成長すると、自活して自分の家に暮らし、自分で決定を下し、外からの助けに頼らないようになる。
福祉や慈善事業の厄介になっている人々を見下す。
予期せぬ困難に直面すると、「自分で切り抜ける」ための本を探す。
その間ずっと、神にとって最も望ましい心のあり方、宇宙における私たちの有様を最もよく物語る心のあり方を、きれいに封印している。
「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです」。
このイエスが弟子たちに語った真実を否認しようとする。
もちろん真実は、私が自分だけを頼りにする存在ではないということだ。
教師が言い直してくれなかったら、私は書くことはもちろん、本を正しく読むことすらできなかったかもしれない。
大人になってからは、電気や燃料は公益事業に、交通手段は自動車会社に、食べ物は牧場主や農家の人々に、霊的に豊かになるためには牧師やメンターに頼っている。
依存というネットワークの中に住んでいるのだ。
その中心には、すべてのものを結び合わせる神がおられる。
祈ることで、この自分の真の状態が否応なく目に入ってくる。
ヘンリ・ナウエンの言葉を借りると、「祈ることは神のまったき光の中を歩むこと、ためらうことなくただ『私は人間で、あなたは神です』と言うことだ。
その瞬間に回心がおこり、真の関係が回復される。
人間は時たま間違いを犯す者でも、また神も時おり許す者でもない。
人間は罪人であり、神は愛である」。
たいていの親は、たとえそれが健全かつ正常なことだとわかっていても、子どもが依存的な状態を抜け出るときに心に痛みを覚える。
神の場合は違っている。
私は依存的状態から決して抜け出ることはなく、もし抜け出していると思うなら、それは間違いだ。
助けを求めることが祈りの根幹だ。
主の祈りそのものが、そのような一連の求めで構成されている。
祈りとは、「神に依存します」と宣言することなのだ。
God Bless You!!
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