2023年11月22日(水)
『陽気な物乞い』
子どものころ、日曜日の朝は最高にお行儀よくしていた。
神のため、また周囲のクリスチャンのためにおしゃれをした。
教会が正直であっていい場所であるなどとは思いもよらなかった。
しかし今、恵みのレンズを通してこの世界を見ようとすると、不完全こそ恵みの前提条件であることがわかる。
光は割れ目の中だけを通るものなのだ。
私のプライドはなお、いい格好をしろ、外側をきれいに磨け、と誘惑をしかけてくる。
C・S・ルイスは言った。
「われわれは、もしわれわれが輝いているとすれば、その輝きはまったくわれわれを照らしている太陽から来ているということを認めることはやさしいが、これを悟ることは長い間ほとんど不可能であった。
確かにわれわれは僅かな———どのように僅かであろうとも———固有の光輝を持っているに違いないであろうか。
確かにわれわれはまったくの被造物であるはずがないであろうか。」
彼は続けてこう言う。
「恩恵(恵み)はわれわれの求めの十分な、子供らしい、楽しい受け入れ、絶対依存による喜びを与える。
われわれは『陽気な物乞い』となる。
陽気に物乞いをする被造物の私たちは、依存することによって栄光を神に帰する。
私たちの傷や欠陥こそ、恵みが通る割れ目なのだ。
欠陥があり、不完全で、弱く、必ず死ぬというのが、地上における人間の運命だ。
そしてその運命を受け入れることによってのみ、私たちは重力の力を逃れ、恵みを受け取ることができる。
そしてそのとき初めて神に近づくことができる。
奇妙なことに、神は「聖人」よりも罪人の近くにおられる。
「聖人」という言葉で私が意味しているのは、その敬虔さで有名な人々のことだ。
真の聖人は、自らの罪深さを決して軽く見ることがない。
霊性について語るある講演者がそれをこう説明している。
「天の神は一人ひとりを糸でつないでいる。
あなたは罪を犯すとき、その糸を切る。
すると、神は再びその糸を結び、結び目を作られ、あなたは前よりも少し神に近くなる。
何回も何回もあなたの罪が糸を切る。
そして結び目が増えるたびに、神はあなたをご自分に引き寄せていかれるのだ。」
いったん自分自身に対する見方が変わると、教会のことも違った光の中で見るようになった。
教会とは恵みに飢え渇いている人々の集まりだ、と。
回復途上のアルコール依存症患者のように、私たちは互いに弱さを認め合う。
God Bless You!!
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