2023年11月21日(火)
『ビリヤードの玉よりも滑らかに』
律法主義について書いてきたのは、一つは、自分がこれと出合って傷ついたからであり、もう一つは、律法主義が教会を非常に大きな力で誘惑すると思うからだ。
律法主義は、信仰の道端で、こっちの道はもっと楽だよと誘う。
思わせぶりに、信仰をもつことの益をいくらか約束しながら、いちばん大切なことを提供することはできない。
パウロは当時の律法主義者にこう手紙を書いている。
「なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです」。
律法主義は一見難しそうだが、実際はキリストにある自由のほうが困難な道だ。
殺人を犯さないことは比較的容易だが、愛をもって手を差し伸べることは難しい。
隣人とベッドを共にしないのは比較的やさしいが、結婚生活の存続はなかなか難儀なことだ。
税金を支払うのは困難ではないが、貧しい人々に仕えるのは決してやさしいことではない。
自由の中に生きようとするなら、私は聖霊に導きを求め続けなければならない。
自分がやってきたことよりも、なおざりにしてきたことのほうに目を向ける。
私は偽善者のように行動という仮面をつけることができないし、他のクリスチャンと同様だと安易に考えて逃れることもできない。
改革派の神学者グレシャム・メイチェンによると、「低い律法観は律法主義に通じるが、高い律法観は、人を、恵みを追い求める者にする」。
律法主義は結果的に、神に対する見方を低いものにしてしまう。
私たちは、厳格な教派やキリスト教団体を「霊的」だと考えがちだ。
しかし本当のところ、ボブ・ジョーンズ大学とホイートン・カレッジの違い、あるいはメノナイトと南部バプテストの違いなど、聖なる神と比べれば些細なものだ。
地球の表面はビリヤードの玉よりもなめらかだ、と何かで読んだことがある。
エベレストの雄大さや太平洋の海溝の深さは、この星に住む私たちにとってはすこぶる印象深い。
しかしアンドロメダ大星雲から見れば、あるいは火星から見ても、そのデコボコは全く問題とならない。
私は今、キリスト教グループの行動の違いなど、それと同様に些細なものだと思っている。
きよく完全な神と比較すれば、人間が定めた規則もエベレスト級に高邁なモグラ塚程度なのだ。
人は高みに登ったからといって、神に受け入れられるわけではない。
神に受け入れられるには、ただ神の受容を贈り物として受け取らなければならないのだ。
God Bless You!!
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