2023年11月20日(月)
『取り繕い』
イエスの生涯を研究するたびに、ある事実に驚かされる。
イエスを最も怒らせた人たちは、少なくとも外面上は、彼に最もよく似た人たちだったのだ。
イエスがパリサイ人の特徴を備えていたというのは、学者たちの一致した意見である。
イエスは、トーラーやモーセの律法に従い、指導的なパリサイ人の言葉を引用し、公の議論では彼らに賛同することもしばしばあった。
それなのに、イエスはパリサイ人を最も強く攻撃された。
彼らを「蛇よ」とお呼びになった。
「まむしの子孫よ。
愚かで……偽善の律法学者、目の見えない案内人たち。
……白く塗った墓のようなものだ」。
何がこれほどの怒りを引き起こしたのか。
パリサイ人には、今日の報道機関がバイブル・ベルトのファンダメンタリストと呼ぶような人々と似たところがたくさんあった。
彼らは人生を神に従うことに献げ、十分の一献金をきっちり行い、律法の一点一画に従い、改宗者を獲得するために宣教師を送り出した。
性的な罪や暴力犯罪に巻き込まれることはめったになく、パリサイ人はまさに模範的な市民だった。
イエスがパリサイ人を公然と非難したことは、律法主義の有害な脅威をいかに深刻に見ておられたかを物語っている。
律法主義の危険性を理解するのはなかなか困難で、実にとらえどころがない。
私はその危険性を調べようと新約聖書に目を通した。
ルカの福音書11章とマタイの福音書23章を選んだのは、そこでイエスがパリサイ人を道徳的に分析しておられるからだ。
今、律法主義の危険性に言及するのは、それが一世紀と同様、今世紀においても大きな脅威となっていると思うからだ。
イエスは、律法主義者が概して「外側」を強調したことを非難して言われた。
「あなたがたパリサイ人は、杯や皿の外側はきよめるが、その内側は強欲と邪悪で満ちています」。
神に対する愛の表現は、時を経るにしたがって、周囲に強く印象づけるかたちへと変貌を遂げていった。
イエスの時代、宗教者たちは短い断食の間、やつれ果てて飢えたふりをし、人前で大げさに祈り、聖書の一部分を身体に結びつけていた。
山上の説教の中で、イエスはそうした一見無害とも思える行動の背景にある動機を非難された。
生涯、律法主義と戦ったレフ・トルストイは、外面的なものに基づく宗教の脆弱さを理解していた。
トルストイによれば、あらゆる宗教のシステムは外的規則、あるいは道徳主義を促進する傾向にある。
それとは対照的に、イエスは、弟子たちが達成して満足感を得るような規則を定めようとはなさらなかった。
霊の成熟を示す証拠は、今どれほど「きよい」かではなく、どれほど自分の不純さを自覚しているかだ、とトルストイは主張した。
その自覚こそが恵みに至る扉を開く。
God Bless You!!
a:6 t:1 y:0