2023年11月16日(木)

2023年11月16日(木)


『安息角』

私の住む山で、巨岩が転がり落ちずに丘の斜面に座している角度を、地質学者や鉱山労働者は「安息角」という上品な言葉で表現している。

私はそのイメージを、祈りと行動の接点と考えている。
そのような巨岩はよく転がるのだが、潜在エネルギーを放出しながら破壊的な力で滑り落ち、地形を永遠に変えてしまう。

ほとんど重さのない小さな雪片の堆積が解き放たれて雪崩になるときも、同様のことが起きている。

ドイツのある神学者によると、ディートリッヒ・ボンヘッファーの秘密は、祈りと現実性を組み合わせた創造的な方法にあり、それが行動主義と敬虔さをあわせもつ霊性を生み出していた。

修道院に隠遁してドイツ・レジスタンス運動の命令を待ちながら、ボンヘッファーはこう書いた。
「朝夕の祈りと個人的なとりなしをしない一日は、実際、意味や重要性のない一日です。」

牧師である彼は、ヒトラーに抵抗する運動に参加して投獄されてからも、定刻の祈りの時間を守り続けた。

ボンヘッファーは祈りの本質を、地上における神の働きに協力することととらえていた。
彼は、仕方なく周囲の悪に関わりながら、敬虔さの中に身を潜めているドイツ・キリスト者を叱責した。

祈るだけで、あとは神がしてくださるのを待つ、そんなことはできない。

同時にボンヘッファーは、祈りの力に頼ることなく悪の力に対抗する行動主義にも警告を発していた。
祈りと、祈りに裏打ちされた行動。
悪との戦いにはその両方が必要だ。

1960年代、70年代に、社会的福音を強調するプロテスタント主流派の神学校のキャンパスから、祈りはほとんど消えてしまった。
個人の生活で私的な祈りについて話すと、疑いの目で見られ、敬虔主義がもつ危険性についてお説教をされることもあった。

その結果、多くのプロテスタント信者が霊的指針を求めて修道院を訪れた。
彼らはドロシー・デイやトマス・マートンのような行動主義者から、祈りに支えられていない社会的活動が疲弊と絶望につながる可能性が十分にあることを学んだ。

私たちはみな自分なりの仕方で、祈りと行動主義の、行動と思索の間の緊張を感じることだろう。

私は「行動と瞑想センター」から会報を受け取っているが、ここに併記されている行動と瞑想という二つの言葉に、私たちがイエスに従うときに求められることがほぼ言い表されている。

God Bless You!!


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