2023年11月10日(金)

2023年11月10日(金)


『だれが聴衆か』

私は批判精神旺盛な消費者のような気持ちで教会へ行っていた。
礼拝をパフォーマンスの場のように考え、自分の好みが出てくるものを待ち、私を楽しませてくれるのを期待していた。

セーレン・キェルケゴールは、私のような者たちのことを、「教会を一種の劇場のように考える傾向がある人たち」と述べた。

私たちは、観客席に座り、すべての人の目を引きつけている舞台役者を見物しているというのである。
こちらが十分に楽しんだら、拍手や歓声をもって感謝の気持ちを表す。

しかし、教会は劇場とは正反対のものであるべきだ。
教会では、「神」が礼拝の観客だ。

牧師は主役でなく、プロンプターのような働きをするべきだ。
舞台のそでにいて、小さな声でせりふを教える目立たない助け手であるべきなのだ。

最も重要なことは観客の心の中で起こるのであり、舞台上の役者の間で起こるのではない。
私たちは礼拝から帰るとき、「この礼拝から何を得ただろうか」ではなく、「神はこの礼拝で起きたことを喜ばれただろうか」と問うべきだ。

今、私は礼拝中、上を見て、講壇を超えたところ、神に視線を向けるようにしている。

古代イスラエルの民に、動物の犠牲に関する詳細な指示を与えた神が、後にこう言われた。
「わたしはあなたの家から雄牛を囲いから雄やぎを取ろうとしているのではない。
森のすべての獣はわたしのもの。千の丘の家畜らも」と。

民は、礼拝の外側のことに焦点を当てたために、大切な要点を完全に見失ってしまった。
神の関心は、心の犠牲にあり、従順と感謝という内側の姿勢にあることを。

今では、礼拝に出ると、私は劇評家のように、座席にふんぞりかえって批判を加えるのではなく、内側の精神に注意を向けるようにしている。

多くの理由から、私は、プロテスタントの伝統のもとにある礼拝に出席している。
講壇から語られる神の言葉を重視する教会だ。

しかし、もはや音楽のスタイルや礼拝の順序、教会の「装飾品」についてはほとんど気にならない。
神に出会うという礼拝の本来の目的をないがしろにし、「装飾品」に注意を集中させることによって、私は最も大切なメッセージをなおざりにしてしまうことがあったからである。

God Bless You!!


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